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これは「二人称小説」なのではないかーー?
最後のページまで読んだときに浮かんだ疑念は、まずこれであった。
あまりに有名すぎて、大方のあらすじを私たちが知っているからかもしれない。が、後半の「先生と遺書」については主人公の”私”へ先生が語りかけるという形式をとりながらも、その内容が先生の過去(しかも誰にもつまびらかにされていない)という点から、私たちに語りかけているような気分になってくる。そうして”私”が私たちに、”先生”が漱石に感じられてくるのである。
解説にもある通り、おそらく漱石の思惑通りに筆が進んだのは、”私”が郷里から東京へ電車に飛び乗るシーンまでだろう。ここまでは漱石の策略が感じられる。レールの上に乗せて「読ませて」やろう、という筆致が感じられる。
が、後半の「先生と遺書」の段になると、話は違ってくる。あまりに長いこの遺書は、レールの上を走っていた私たちを思考の海へ放り投げる。有名な「精神的に向上心のない奴は馬鹿だ」のセリフは、じわじわとみぞおちに食い込んでくる。これはKが先生へ投げ、それを先生がKへ投げ返し突き刺した言葉であるが、私たちの腹にも突き刺さる。
つまり、先生は”私”に、この過去のやりとりを話すことにより、”私”に先生より高みに立ってほしい、と願っており、それは妻へ打ち明けないでほしいということであり、そう飲み込んだ上で「生きて行く」という選択をしてほしい、という願望である。
それを、二つの段を追って”私”と同一化した私たちに、抉るように突き刺してくる。
「先生と遺書」の段があまりに有名で語られているのに対し、前ふたつの段は軽んじられているような気がする。私は、この前ふたつの段の方がよほど「文学として」「正しい」と言いたい。このふたつの”私”が語る先生という人間、またはそのイメージというものがなければ、最後の「先生と遺書」の段にスムーズに没入していけないからである。その点において漱石はうまかった。見事に”先生”とは何者なのか、という興味を抱かせ、”私”を私たちであるよう錯覚させ、最後の段において疑問や後悔を”私”ではなく”私たち”に投げかける。この手腕は見事としか言いようがない。
私はこの点において、この小説を「二人称小説」だというのである。一人称で始まる小説が二人称になる時、人は相手から何かしらのエネルギーを受け取る。それは憎しみであったり愛情であったりと様々だ。そして『こころ』においては、「精神の殉死」という尊ぶべき純粋さを受け取るのである。
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