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おそ松さんを5話まで観て、私が今ぼんやりと思っているのは、これは″個というものへの答えを出すアニメ″なんだな、ということです。

1話では視聴者を取り込むためと見せかけたパロディを取り入れた等身の高いアイドルバージョンの6つ子を登場させることによって、まず「6つ子という″集団″」に興味を持ってもらう。
個性をあえて流行りのパロディをすることによって潰し、今(現代)の″個性と呼ばれている何か″がいかにテンプレであるかを示す。

2話では見た目は全く個性的ではない6人が、長男おそ松ですら知らない一面を持っていることを見せる。

3話は小休止的な回なので飛ばして4話。
ここで母親という6つ子が完全に気を許している存在にアピールさせて、「こいつらの性格はこうなのか」と視聴者に刷り込む。
Bパートで内面を表す母親とは違う、外面を表すトト子に対するアピールを見せる。
視聴者はその両方を見れる神的存在、メタの存在。

そして問題の5話に続いた訳です。


結論から言うと、5話は「カラ松がアイデンティティーを確立する回」だったと思います。


6つ子には完全なる真ん中っ子が存在しません。
つまりカラ松は兄であり、弟でもあるけれど中途半端な存在です。
また、「兄松」と「弟松」というわけ方からわかる通り、どちらかといえば兄よりです。なのにおそ松から見れば弟でもある。6つ子の中で立場が確立されていないのです。
彼のアビリティは兄でもなく弟でもない、と言い換えることができます。

性格について言及すると、「イタい、ナルシスト」という公式設定がまずでてきます。そして5話まで見ると、「決して兄弟のことを悪く言わない」という、とても優しい性格が見えてきます。
4話放送後ではTwitterで検索をかけると、「カラ松 自我」と予測候補がでてきたように、周りに流されるカラ松でした。おそ松の真似をし、一松の真似をして扶養されようとする。
でもそれは彼の内面を描く手法のひとつなだけで、6つ子の中で一番「協調性」があるのが彼、という表現をややオーバーにしたものだと思われます。

自分がないのではなく、周りに合わせる。

その優しさは2話で、一松を他の兄弟がdisったときに一人だけ一松をかばったことからもわかります。そしてかばったにもかかわらず、一松には胸ぐらを掴まれる。でも酔いつぶれた一松をおぶって帰途につく。


ここでふと思うのが、カラ松と一松の本質的な部分です。
おそらく、ふたりは兄弟の中で一番似ています。

孤独を愛し(てるように見せ)、集団の中から浮いている存在。

今までの話ではちょっと読み取れませんが、多分カラ松にも、幼馴染のチビ太やイヤミなどのレギュラー陣以外の友達はいないでしょう。
それを「肯」として受け入れているカラ松と、「否」としている一松の対比がよくでているのが今回の5話でした。
カラ松は自分の本音を言いません。チビ太に気を遣わせるほど言いません。その本音が聞けるのが、5話の最後の叫びです。

対して一松は5話で、自分の本音を意図せずさらけだしてしまいます。「友達は欲しいけど僕にはみんながいるからいらない」。

ここが一番カラ松と一松が違うところです。

カラ松は、Aパートでもう兄弟には頼れない事態となっています。
Bパートにカラ松が存在しなかったのは、もうAパートでカラ松は「6つ子という集団から独立した存在」となっているからです。集団から追放されることにより、「お前は一人で生きていけるよ」と言われるだけのアイデンティティとお墨付きをもらっているのです。

対して一松。彼は最後まで、兄弟に助けられます。集団から独立することはありません。

これが、本質的に似ているふたりを徹底的に対照として描いた部分だと思います。

一人で生きていける、とされたカラ松。
まだ一人では生きていけない一松。
本質的に似ているふたりをこう扱うことにより、カラ松の今までの話では見えてこなかったアイディンティティを確立させたのです。

ではこの後、カラ松はどういった存在になるのか。
ふたつのパターンが考えられます。
ひとつめは、今までの赤塚世界の通り、何事もなかったように1話めからと同じように扱う。いわゆるループ世界の定石として進めるパターンです。
ふたつめは、カラ松に「個性」が芽生えたということを住人たちが認め、接し方や態度が変わった世界を描くパターンです。

どちらにせよ、もう「内面」も「外面」も知ってしまった視聴者は今までの気持ちでは見れません。ひとつめのパターンで今後話が進んだとしても、ふたつめのパターンとしてみるしかないのです。


ここで一松のことについても話したいと思います。

一松は今までの話で、徹底的な個人主義者として描かれてきました。
もしかしたら犯罪を犯してしまうかもしれないほど、「ヤバイ」人間として。

でももう2話で、一松が個人主義者ではないことは描かれているんですよね。
ハローワークに行った理由が「みんなについてきただけ」。これは孤立することを恐れていると読み替えることができます。
そうやって伏線を紡いで回収した結果が、今回の5話です。

本質的に似ているカラ松は「強さ」を得たのに対し、一松は「弱さ」を見せます。
その弱さで何を得たかと言えば、彼は何も得ていません。
なぜなら、前から兄弟たちは一松のことを心配し、愛していたからです。
新しく得たものは何一つないのです。

つまり、Bパートは一松回であったのにも関わらず、彼はまだレーゾンデートルを取得できていない。

これが今回の製作側の「巧さ」だと思うのです。

片方はアイディンティティを取得し、もう片方はなにも得ていない。
ひとりは独立し、ひとりは埋没する。

これはカラ松と一松という二人以外ではできない手法でした。
6人の中で似ているふたりだったからこそできたことです。
そう、一松もまだアイディンティティを持っていないのです。

その「アイディンティティを確立していないふたり」を、仲が悪いだとか体質が似ているだとかで差異を出しつつ、今までは「この二人の本質は同じ」として扱ってきました。

一松が一番甘えられる兄弟は、きっとカラ松だったのでしょう。
気楽に扱っていい、嫌われる恐れを抱かなくていい、素をみせても構わない存在。
それは一松がカラ松を下の存在としてみているからではなく、「カラ松なら許してくれる」という「弟として」の甘えです。

しかし、その甘えても構わないカラ松は一抜けしてしまいました。
むしろ、集団から抜けるのに一松は多大な貢献をしました。誰よりも大きな迫害をしました。
彼の甘えのせいです。

「カラ松は自分のそばを離れない」。

では、その甘えが間違いだったと気付いた時、一松はどういう行動に出たか。
それが、十四松に対する「俺もごめん」です。
兄でもなく弟でもないアビリティを脱却するために、「成長」を選んだのです。
そのセリフによって、完全に一松は「弟松の中での兄」となりました。
そんな彼を、兄弟たちは暖かく迎え入れます。成長した一松は、カラ松からの卒業を望むのです。

今後一松はどんな存在になるのか、ですが。
おそらく彼が今後歩む道はひとつしかありません。視聴者がみせられた世界の通り、この後も時には兄弟に甘え、時には毒舌を吐き、時には本音を漏らす。
そう、彼は「成長」という道を選んだのにも関わらず、ループ世界からは抜け出せないのです。

今回のカラ松と一松の違いの描き方は、かなり残酷です。
それは表面上は「カラ松の扱いが悪い」という残酷さですが、実は「一松は成長できない」という、ループ世界のパラドクスの残酷さなのです。

それでも私は一松の成長を望みますし、6つ子という集団を望みます。
視聴者は望むことしかできない。
それが、一番残酷なことなのかもしれません。
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