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陳腐かもしれないけれど、それはきっと
ようやくこのCDを聴く勇気が出た。
私にとっての「ミュージシャンの夭逝」のファーストインパクトはhideだった。その後MALICE MIZERのkamiが死に、「ああ、死というものは平等に降りかかるのだ、それも何かを残すべきものに対してでも」と強く思ったのを覚えている。
私にとってのhideは、代弁者だった。
対してロックに造詣が深くない私でも、「彼は何かを伝えるためにこういったパフォーマンスをしているのだ」とわかる衝撃があった。
hideがテレビ番組で取り上げられるたびに、観た。
それは時に「自殺志願者」として、それは時に「病気の少女との交流という美談」として。
いつもはロックにうるさい親が、hideの番組を観ることだけは文句を言わなかった。娘の喪失感に気づいていたのかもしれない。
彼が生きていた証を刻みたくて、手の甲にカッターで「hide」と彫り、学校を騒然とさせたこともある。
では好きだったのかというと、そういう感情ではなかったと思う。
日本が熱狂したカリスマ・アーティストの死に、私も感化されただけなのかもしれないな、と今では思う。

このアルバムは、hide最後のアルバムだ。今現在ではボーカロイドで新曲も出たが、間違いなく「最後のアルバム」と銘打たれて発売された。
めちゃくちゃ売れた。友人の中で持っていないのは私だけなのではないかというレベルで売れた。
私は、このアルバムを買わなかった。
それはモラトリアムの反抗だったのかもしれないし、自分の中で美化された思い出を汚したくなかったのかもしれない。
私は、hideに最高のロッカーでいて欲しかった。遺作でがっかりはしたくなかった。
それでも「HURRY MERRY GO ROUND」はシングルで買った。どうしてもそれは手に入れなければいけない気がした。
<また春に会いましょう>と繰り返される歌詞は、ほんのすこししかない彼との思い出を反芻する曲だった。私にはそれで涙を流すほどの執着を彼には持っていなかった。それがとても哀しかった。
8cmシングルで出たそれは、すぐに時代と合わなくなり、数回聞いただけでコレクションにしまわれた。
それを、この間光学ドライブを買ったついでにPCに取り込んで、聴いた。10年以上経って、ようやく彼との音楽に向き合った気がした。
そして、このアルバムを買った。私にとっては収録されている曲すべてが懐かしく、苦しく、甘いものだった。
「ピンクスパイダー」の歌詞を分析して、「彼には自殺願望があった」とワイドショーで発言した心理学者を心の中で糾弾した。その後「ever free」が発売されてその色は消えたが、それでも聴くのはつらかった。

今は心穏やかに、このアルバムを聴いている。
それはhideサミに参加したからなのかもしれないし、10年以上経って心の整理がついたからなのかもしれない。
思春期のもやもやは、誰しも経験していると思う。
出口のない暗い迷路に飛び込んだような焦燥感。だれも解ってくれないのではという孤独感。
それを投影するのに、hideはちょうどいいスクリーンだった。
陳腐かもしれないが、今このCDを聴いて思うことはひとつだ。
音楽は死なない。それを彼は証明している。
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ブランデーを入れたホットミルクのように
奥村愛子のラブソングはなぜこんなにも「不倫」という単語を連想させるのだろうか。
おそらく普通の恋仲を書いた曲もあるのだろうが、私の耳にはそれらすべてが「あってはいけない関係」であるように聴こえるのだ。
「いっさいがっさい(密命ヴァージョン)」は金管楽器の音色も華やかに、一曲目としてふさわしい派手さで始まる。だが、歌詞に<友達には知られぬように 彼女には見つからぬように>と出てきてしまう。これは不貞の愛なのではないか?
二曲目の「万華鏡」も泥沼にはまった女性の心情のように聴こえる。<最初から最後まで 真実はひとつもなかった?>などと心臓をえぐられる歌詞だ。
三曲目の「冬の光」は今までと一転切ないバラードになっているが、やはりここでも”両思いなのに一方通行な気持ち”がでてくる。続く「宝石」は愛情を宝石に例えた名曲だが、やはり漂う雰囲気はどこか後ろ暗い。そこにホーンが重なって、大人の恋愛という感じをピッシリと出している。
80年代アイドルソングのような「フリージア」は、別れの曲だ。歌謡曲と呼ぶのに相応しいような曲調と歌詞に、翻弄される。そして、突然に「蝶」で女は変身する。自立した、恋を楽しむ女性になる。関係に行き詰まりを感じてはいるものの、選択肢を選ぶのは二人の責任だとでもいうように相手を責める苛烈な歌だ。
「いろのない日記帳」では、日記帳という小道具を使うことによって、それがボロボロになると同時に愛もボロボロになっていく様を綴る。ジャジーなサウンドが物悲しさに拍車をかける。だが、奥村はそのボロボロになった日記帳を捨てることはない。<広げて見せてよ>と迫る。愛というエゴイズムを最大限に利用する。
「捨てられ上手(穏やかMix)」では奥村チヨの「恋の奴隷」を思い起こされるような尽くす女性を描き、それが幸せだとでもいうように<いい子にできたら 頭をなでてよ 目指すはただの遊ばれ上手>と、これもまたどこか諦観を孕んだ曲だ。「わたしはずるい(爽やかMix)」では男に他の女がいることを自覚していながら、その中でも「誰よりもきっとわたしよりは賢い女」と卑下をする。ここに不倫の悲しさがある。既婚者と付き合っている段階で、自分はその他の女よりも劣る女だということを自覚している。それは賢さではなくて、本能の聡さである。ホーンの華やかさとピアノのゆったりとした曲調が女性名をまくしたてるシーンでとてつもなく心をえぐる。
「東京から」では静かなピアノから曲が始まり、別れた男に思いをはせる。東と西に別れたふたりの生活に思いを巡らす。
「紙の舟」ではクラシックを思わせる旋律から、穏やかに曲は流れていき、奥村の歌詞と合わせるとそこは歌謡曲というより演歌の世界だ。まるで石川さゆりの飢餓海峡である。
そうしてラストナンバーの「明日からふたりは」でこのアルバムは終わる。歌詞だけみれは新生活への楽しさを歌っているのだが、それも別れの中の楽しさである。<最後にお願い 一度だけ あの人同じようにぎゅっと抱いてよ 『ほんの五分でいいのよ」>と同棲生活への疲れを余すことなく描く。
体力のない時には心を痛めることまちがいないのだが、なぜこんなに聴きたくなるのだろう。それはやはり奥村の歌唱力の高さと、全編に漂う切なさを感じ取る嗅覚が研ぎ澄まされるからに他ならない。
もしあなたが報われない恋をしているなら、この珠玉の曲たちはきっと意味をもって心に降り積もる。そしてそれは暖かく、少しの中毒性を持っているのだ。




君の選択肢は無限に近いだろう
君は突然"青"の中に放り込まれた"赤”だ。その後どうなる?
青に染まるか? 混じり合って紫になるか? それとも自らの色に染めるか?
このシングルの色は徹底した青だ。1曲目「フォーリングダウン」では<青く灼熱の日が照りつけて>くるし、2曲目の「月の夜」では<満ち欠けの月は蒼>だ。3曲目の「約束」では<今 蒼く 陽は昇り世界染めてゆく>。この青い世界で"異物"の君はどうするべきか。
熱帯魚のように赤いネオンを泳ぐのもいいだろう。デジタルなダンス・サウンドに体を翻せば、そこはヴァーチャルな水槽の中になる。
ピアノの美しさに体を透かせるのもいいだろう。君の体を通した蒼い月は、紫の影を落とす。
太陽に灼き尽くされるように「約束」に身を焦がすのもアリだ。ピアノのジャジーな哀しみに体を微睡ませれば、君の赤と世界の青は混じり合う。そして、世界に君の「染み」がぽつんと残るだろう。
「フォーリングダウン」はミヤの作詞作曲、「月の夜」はYUKKE作曲に逹瑯作詞、「約束」は逹瑯作詞作曲と織り成される世界も幅広い。いくつもある世界で、いくつもある道で、君はどのように歩んでいくのだろう。
おそらくその可能性は無限に近く、君の足跡は好きな色に染まるのだ。この清廉な青の世界の中で。

心に花を 心に刺を


信念と嘘の狭間で
FtCは青春のバンドだ。
それは私の青春だというだけではなく、サウンドが青春なのだ。
この曲は彼らが一度メジャーを離脱した後に出したシングルで、ファンにとっては意義深い一枚だ。
当時私は高校生で、毎度お金がなくて、彼らの動向を追うまでの金銭力はなかった。
そして毎週録画しているPVを流しているTV番組で、この曲を聴いた。
心が熱くなった。
ああ、彼らは生きていた。それは私にとってとても嬉しいことだった。
今回CDを手に入れて、じっくりと聴くことになって、嬉しかったのはまずカップリング曲が聴けることだった。「LOVE&LIES」では、変わらない彼らのまっすぐな曲が聴けた。石月の歌詞は相変わらずちょっと痛くて、ちょっと切なかった。ドラミングは清冽で、和也とShunのギターは対照的で、ベースは下腹部に響いた。<想い出は傷口で新しい日々の中で また僕はキレイじゃない羽広げてはばたいていく>そう、彼らのサウンドは優しくて痛い。それは傷口を撫でていくような手つきで私たちの心を撫でるからだ。
TV番組を録画して、学校から帰ってきて再生している時間は、私にとっての青春だった。
CDの売り上げには貢献できなかった。雑誌も買えなかった。情報は手に入れられなかった。
それでも好きだった。
そんな私の後ろめたい気持ちを癒すように撫でていくこのサウンドは、誰がなんと言っても青春のサウンドなのだ。




ボニー&クライド、教えてくれ

救済歌、なのだと思う。
ボニー&クライドは1930年代に強盗や殺人を繰り返したカップル。自由を求める閉塞的な時代に、彼らは英雄視され度々映画などの題材になった。
「閉ざされた楽園」では、何度も二人に問いかける。<何処に行くべきか>、<力強く生きることの意味を>。その問いかけは2番で「本当は自分でもわかっている」という答えに変わる。
結生のサウンドは90年代後半のV系を思わせるノスタルジックな曲調が多い。この作品もそうなのだが、そこにガラの”激唱”ともいうべき歌がのることで、ただ懐かしいだけのサウンドとは一線を画している。
またこのタイプの曲には珍しく、ベースはズンズンと重低音で鳴るし、ドラムは暴れていると言った方が正しいかもしれない手数だ。
ただの救済歌ではない、ということなのだ。
人間の内面の荒々しさを表現しつつ、サビの広がっていくような爽やかなメロディを聴かせる仕様になっている。
それはメリーというバンドの今までの軌跡を見てもわかるのだが、彼らは人間の内面を暴こうと必死になって活動しているように見える。だから、ただの救済歌では終わらず、<無理をしててでも>力強く生きていこうとする。
答えはそれぞれが持っているという、その道を示すように。
カップリングの「喜劇のタブー」は健一の持ち味であるレトロック、それもちょっとお洒落なレトロさをギターでうまく表現している。健一の曲にのるガラの歌詞は毎度暗いものになりがちなのだが、この曲は「閉ざされた楽園」の対になっていると言ってもいいのではないだろうか。心的外傷をノイジーなギターで表現して、空間系エフェクトで救いを表す。
クライドの気持ちを歌ったものなのか、少女たちのカリスマであるべき自分たちを歌ったものなのかはわからない。だが、アジテーターとフォロワーの関係はときに喜劇だ。
2016.06.16 cuckoo:CASCADE




洋菓子のような夜に聴く手のひらサイズの世界

アコースティックのギターから始まる、しっとりとしたバラード。
Aメロが終わって挿入されるベース、ドラムの音で、物語に引き込まれる。
<AH このまま世界が終わるなら そばにいて朝を待とう AH 君に出会うために 愛しさを 淋しさを連れて生まれてきた>という1番のサビは、都会の片隅でふたり寄り添って眠るイメージを想起させる。まるで尾崎豊の「I LOVE YOU」の世界だ。
この曲に登場する”二人”は、別れを予感している。無軌道な青春の果てを見ている。それを淡々とした8ビートのドラム、甘く響くベース、悲しいほど美しいギターが支える。
箱庭的世界だ。それも砂糖細工のような、淡く脆い。
Cメロにのるストリングスはどこまでも切なくキラキラしている。
最後まで「これはどこへ行くのか」という問いかけが続き、最後は決意と悲哀の<いつまでも いつまでも 君のそばにいるから>という歌詞で締めくくられる。
Tamaの甘ったるい声が、この曲のストーリーを映えさせる。語りかけるように、ささやくように、ひとりごちるように。耳の中が夜明けのカフェオレを飲むように気だるくなる。
曲の展開は、シンプルに見えて非常にゴージャスだ。アコギ、エレキ、ベース、ドラム、ストリングス。それを決してひけらかすことなく、重要なツボだけを押さえて、耳触りの良い一曲に仕上げている。
c/wの「エントロビースト」はノイジーなファズの効いたボーカルに、倦怠感と疾走感を併せ持った不思議な一曲になっている。買った当時はあまり聴き込んだ覚えがないのだが、今聴くとブルースで使われるドラムン・ベースに尖ったギターが焦燥感を煽り、なかなかに名曲だ。
残念ながら今は廃盤なのだが、手に入った際はじっくりと聴いてもらいたい。




五年前のドイツ映画である。監督はアドルフ・ブルガー。
奇しくもあの、ヒトラーと同じ名を持つものがメガホンを撮った。

この作品には二人のヒーローが出てくる。贋札作りの達人であるユダヤ人、サロモン(以下サリーと呼ぶ)、もう一人は収容所の中で己の正義を貫くブルガーだ。

パリの高級ホテルのカジノから、この映画は始まる。大量のドル札を持った、金遣いの荒い男、サリー。情事の後に出会った女にすら金を渡す。左腕にはアウシュビッツの入れ墨。彼はこのカジノで、ギャンブル以外にある目的があった。

舞台は1936年ドイツ。
贋札作りで名を馳せ、身分証やパスの偽造をその筋からよく頼まれる、「詐欺師」のサリー。一晩ねぐらを変えるのが遅かった為に、SSに捕まり収容所へ入れられる。
収容所で無抵抗の人間が理不尽に殺されていく現実を目の当たりにし、サリーは強制労働のあと、みんなが寝静まった中、血豆が潰れた手で”こっそり”とナチ軍人のイラストを描き上げる。それを見つけた軍人が「上手いじゃないか」とほめると、「色が付けられればもっと絵が美しくなります。靴の艶だって・・・」と”おずおず”と訴え、その軍人の肖像画を描く事となる。ただしサリーの視線は机の上の食べかけの林檎である。肖像画を頼んだ軍人が上官に「何をしている」ととがめられた瞬間に、林檎はサリーの口の中。更に上官に絵の才能を認められて、看板を描く労働、つまり重労働から逃れて彼の得意な労働へとシフトさせていくシーンはすごい。
そこから移送され、ザウネンヘルツへと集った囚人たち。アウシュビッツ収容所の人間が着ていたメモのついた服を渡され、とある作戦に参加するように言われるのである。
「ベルンハルト作戦」の名の下に、国を挙げての大掛かりな贋札作りを行うのだ。そこに贋札の専門家として、サリーは受け入れられる。収容所とは名ばかりの研究所には、印刷工、板金工など、様々な専門分野の囚人たちがいた。
ふかふかのベッドが与えられ、ここが本当に収容所なのかと驚く囚人たち。しかし別棟で行われている「試し履き」と呼ばれる刑罰の行進の足音は確かに聴こえており、それはより一層恐怖を駆り立てた。作戦に参加している人間だけが別世界にいるかのようである。
シャワーも週に一度、日曜日に行われる。移送中に仲良くなった美術を専攻していた青年コーニャは、「僕は知っている!ここはガス室なんだ!」と騒いだ後に、普通に水が降ってくる奇跡に感謝する。

「ベルンハルト作戦」とは、敵の経済に打撃と混乱を与える為にナチスが行った贋札作戦であり、そのほとんどは秘密裏に行われた。この作戦がうまくいけば、ドイツは負けていなかったかもしれない。

ポンド札を作る為に悩むメンバーたちだが、紙だけがどうしても本物と手触りが違う。その悩みに、ふと手を拭いた布でサリーはひらめく。「使い古しの麻だ!トルコ産の麻を中に入れるんだ!」
こうして紙は出来、印刷も終わり、「イギリス人は札を財布に入れずにピンで止めます」とディティールにもこだわった完璧なポンドが出来る。ブルガーに睨まれながらも、サリーは「今日犬死にするより、明日ガス室に入る方を選ぶ」と吐き捨てる。
こうして苦労して作った贋札を、ナチスの人間がポンド建ての口座を作る為に銀行へ持っていった。そこで真贋を問われるが、検査はオールクリア。更に「確証が欲しい」と、中央銀行のお墨付きまでもらう。ここではそれが命の保証書となったのだ。褒美としてメンバーには卓球台が贈られた。
次はドル。しかしドルのネガ作成が思うように進まない。そうなるのには原因があった。反体制のビラを収容所に入る前には作っていたブルガー。彼がネガに傷を付けていたのである。「何度やってもネガに傷をつけるぞ」とブルガーはいう。ドルを偽造しない事でナチス(体制)と闘えるが、サリーはそれをしたくない。ブルガーのサボタージュに他の仲間も我慢の限界にくるが、「ブルガーを売るな」とサリーは告げ、黙々と彼自身のやり方で贋札を作ろうとする。サリーはブルガーと争う事を好まなかったのだ。

沢山の同胞を救う為に、ドルを作らないというブルガー。目の前の同胞を救う為に、ドルを作ろうとするサリー。二つの意思がぶつかり続けるが、サリーはナチスにしょんべんをかけられても何も言わなかった。
ブルガーとサリーの心理戦がこのあたりから辛くなってくる。そんな中、両者にとって決定的な事項がひとつずつ起きる。まずはサリー。コーニャが結核を患ったのだ。別の収容所にいたドクターによれば、結核だと解った段階で感染を防ぐ為にその囚人は射殺されたという。コーニャもそうなるかもしれない。コーニャを隔離して、サリーはドルの完成を急ぐ。
ブルガーを失意のどん底に落としたのは、アウシュビッツからの手紙だった。「”ギゼラ”。妻の名だ。」「ドルの偽造は阻止し続ける。その間ここで安全に暮らせる。ベッドだってふかふかだ。」吐き捨てながらブルガーは部屋のベッドをなぎ倒す。彼の妻が処刑されたのだった。

コーニャの病状は悪化するばかりだったが、薬があれば助かる事を知ったサリーは、医師にその薬品名を書かせ、メモとして上着の襟元の穴へ隠しておく。もしものときの為の交渉手段にする為だ。そしてそれはすぐにきた。
少佐の家に模範的な囚人として呼ばれる事になったのだ。少佐の家族たちからの奇異なまなざしを存分に浴びた後、サリーは少佐と二人で酒をかわす。少佐の要望は単純な事だった。パスの偽造依頼だ。それを聞いた後、サリーは薬品名の書かれたメモを渡す。交換条件ということだ。

ドルの完成が期限までに終わらなかった。四人が処刑される事になる。そこでブルガーが仲間に売られそうになるのを、一人でドルを完成させて救ったサリー。この辺りのヒーローは間違いなくサリーだ。
しかしドルが完成した事により、収容所は解体となる。そしてカーニバルの後、コーニャは薬の甲斐無く射殺された。パスを渡したのに。ドルも作ったのに。
サリーの中に、怒りがわき上がる。これは同胞を殺された怒りだけではない。”これから殺される”自分たちに対しての弔いの怒りだ。

しかし、解体が完全に進む前に、戦争が終わった。
他の棟の囚人が乗り込んできた時に、全員がSSではないと信じてもらう為に、アウシュビッツの入れ墨をみせる。それほどまでにここは別世界だったのだ。
痩せ衰えた囚人が、この棟の布団を触るシーン。蓄音機で音楽を聴くシーン。あまりにも違いすぎて、誰もすぐには受け入れられない。そして一番違っていたのは、ブルガーが、ドルの印刷を阻止した”ヒーロー”として紹介された事だ。サリーは隅にひっそりと居た。ただひっそりと。怒りの炎を向ける相手を無くしてしまった状態で。

ここでようやく、最初のカジノシーンの意味がよく解った。サリーは呪われた過去に区切りを付けるため、贋札を全部使い切る為にここにやってきたのだ。
暗転、オケラになったサリーに、ホテルからシャンパンが贈られる。海岸でそれを一人でやっていると、情事をかわした女がグラスをもって近づいてくる。
捕まった夜と同じように、女とサリーはタンゴを踊り、終幕。
「もったいなかったわね、あんな大金」
「また作るさ」
光と影、そしてその逆転をはっきりと描いた素晴らしい作品だった。
サクラセヴン/イロクイ。

 七色と言われたら、あなたは何を思い浮かべるだろうか。やはり虹? それともペインティング? もしかしたら七色の表情、なんていうものを存在するかもしれない。そんな連想の中、「七色の歌声」でこの曲を聴かせてくれるのがヴォーカルのゆーりだ。しゃりしゃりと鳴るシンバルも春らしさを演出し、なんだから気分が高揚して、外へ飛び出したくなる。春とはそんな季節なのかもしれない。


ラストレター/PIERROT

 特攻隊に志願兵として赴く少年と、それを笑顔で見送る少女の運命を、桜の儚さと重ね合わせて描いた名曲。今から10年も前の作品だとは思えないぐらい音の一粒一粒が洗練されている。曲中で流れるバイオリンはヴォーカルのキリトが弾いているもの。この曲の切なさをさらに増長させている。靖国神社が近い日本武道館で初披露されたという逸話も残っており、それは英霊へ向けた餞なのだろうか。


遠き日の桜へ/M-tone(初音ミク・鏡音リン)

 アマチュアで楽曲を作成しているM-toneの楽曲第10弾。音楽ソフト、キャラクター・ボーカロイドの初音ミクと鏡音リンのデュオ曲となっており、同じボーカロイドでも歌声がかなり違うということが解る。「レミソラシ」という和を感じさせるメロディが印象的な、桜ソング。冬、全ての人々が眠らせていた記憶から春に目覚める。それはどこか暖かくて、朧げで、危うい。そんな気分になる曲だ。


ウグイス/スネオヘアー

 うららかな春の陽気には、こんな曲がよく似合う。風はちょっと冷たいけれど、コートを羽織る程ではない感じ。そんなささやかな温もりが滲み出てくるのがこの「ウグイス」だ。アコースティック・ギターの柔らかな旋律と、ポロポロとこぼれるような歌声。「こぼれた花びらフワリと姿を変える」と歌詞にあるように、春は変身の季節。春風のきらめきを感じたのならば、すぐに外に飛び出そう。


桜の隠す別れ道/平川地一丁目

 卒業という別れを、咲き誇る桜とかぶせてしっとりと聴かせる一曲。直次郎のまだ声変わりする前の高めの声が、記憶をさらっていく。様々な思いが桜のように次々と咲いていき、出会いと別れを柔らかく歌い上げている。春、様々な思いの交錯する季節。教室の窓からは桜の雨が降っている。ふわふわとした花びらが、行く手を祝福しているのか、阻んでいるのかわからないほど視界を埋め尽くす。


HIRAKETA/吉井和哉

 吉井和哉の気だるげな歌声と、低音が印象的な演奏が相まった一曲。「赤いスミレ」など、吉井ならではの表現、言い回しをしている歌詞にも注目だ。ゆらゆらと体を横に揺らしてみたくなってくる楽しげなメロディと、繰り返しが耳に残るフレーズ回し。これぞ吉井和哉の持ち味全開! 夜桜の下、安いお酒を持ってふらりとどこかへ行きたくなる。そんな不思議な誘惑に駆られる楽曲となっている。


2009.02.28 Hallelujah:12012
この熱風に巻き込まれれば、更に危険な何かが待っている!

 12012(イチニーゼロ一ニー)待望のニュー・シングルは、春の日差しに包まれているようなあたたかいギター、ヴォーカル・宮脇の広がりを感じさせる歌声で始まるミディアム・ナンバー「Hallelujah」をタイトルとしている。そして、楽曲のドライブ感に脳がうねり出し、それこそ彼らに焼き尽くされそうなストレートなロックの「Burning」と続く。
 2009年2枚連続リリース第2弾の本作は、2008年に精力的に活動してきた彼らの成長がみてとれる、バランスもパワーも最高の一枚だ。楽曲それぞれの力もさることながら、パッケージからこぼれ出てきそうな熱い力を含んでいる。それだけで発熱してしまいそうなほどに。
 初回盤Aには「Hallelujah」のPVが、初回盤Bにはアバンギャルドさ、12012らしさを前面に出した中毒性あふれる危険な一曲「siren」が、通常盤には「Hallelujah」のインストゥルメンタルがそれぞれ収録されている。
 12012の熱に当てられたのならば、きっと今年は例年よりも数倍アツイ年になるはず。心の中のメーターを振り切ってビンビンになった針と共に、超強力な熱風にみずから飛び込んでいこうじゃないか!! 取り残されるよりも飛び込んだ者勝ちだ!!






 無限マイナスの新譜である『パーフェクトワールド』。完璧な世界とは一体何処にあるのだろうか、と深く考えさせられてしまった。おそらく完璧の定義というのは人によって違うひどく曖昧なもので、そんなものは存在しないのかもしれない。それでもこのアルバムは優しく心に染み入ってくる。「君の探していたものはここにあるんだよ」とでも言いたげに。
 インスト「森のサトゥハ」でこのアルバムはスタートし、一気にその中へと吸い込まれてしまう。アルバムの中の世界は、とても幻想的で詩的だ。森を抜けて出会うのは、百年に一度だけ時を刻む「百年時計」。その夢のような音色から、「悪夢カルピス」へと曲は繋がる。遠藤の個性的な歌と太鼓の音が溶け合い、力強いナンバーになっている。そして「盲目の老人は雨の降る日を知っている」、大幅なアレンジを加え自身らの楽曲にしてしまっている「メトロポリタンミュージアム」(原曲はNHKみんなのうたで1984年にオンエア)と続く。タイトル・ナンバーの「パーフェクトワールド」はとても美しく、私たちの心を撫でていく。完璧な世界は、私たちが作っていくものなのだ。そのまま「羊飼いだった少年」「青く丸い地球に生まれて」と楽曲は続き、「水たまりとワルツ」でメランコリックにこの世界は終わる。誰かに優しくなりたくなる、温かい一枚だ。
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