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高校生のめいっぱい世界をひねくれた目で見ていた頃にこの本を初めて読んだ。
目の前に文字で描き出される様々なカフェーは、「いつか行ってみよう」と思えるだけ十分な魅力を持ち、そこで展開される「僕」と「君」のラブストーリーにはどこかロマンチックでありながら説得力があった。絶対に自分には「僕」のような存在は現れない、という確信と、「もしかしたら世界のどこかにこう思ってくれている人がいるのかもしれない」という意味での説得力だ。
様々な喫茶店を舞台に展開する「僕」と「君」のラブストーリーは、世界を爪先立ちで見つめているような危ういバランスで精一杯生きている「君」と、どこかのんびりしながらも諦念を身にまとい恋愛という虚無を食らって生きているかのような「僕」がどの作品にも登場する。その二人は章が変われば変化した別の人格になるのだけれど、どう見ても全く異なる「僕」と「君」ではなく、パラレルワールドの「僕」と「君」である。二人の根底を支えるものは何一つ変わらない。
今回再読して、ロマンチックな文章でありながら、「僕」が揺るぎないナルシシストであるな、と気づいた。「僕」は「君」に愛されることを当然のように望み、「君」は「僕」を惜しみなく賞賛する。うーん、私が一度野ばら文学から離れたのは、こういうところが「成人」した自分に合わなかったからなのかもしれない。
今ではこうして普通に読み返すこともできるが、昔は突然アレルギーになったかのように一切を受け付けられなかった。高校生までは間違いなく楽しんで読んでいたのにである。それが30を超えてこうやって読み返すと、いろいろな角度からもう一度再評価できてそれはそれで楽しい。
今この作品集に登場するカフェーのいくつが現存するのかは知らないけれど、やはり訪れたくなる何かがあるな、と本を閉じた。
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私はこの本を高校生の時に読んだ。
そして今再読して、十代の時にこの作品を読めたのは幸福だったのだなと実感する。

私はロリータファッションを好むわけでもなければ、明治大正の少女ロマンを求めるレトロ趣味なわけでもない。
高校生の時はなんとなくわからなくても「わかったふり」をしていたこの作品が、今読むと面白い。
『エミリー』で野ばら作品に見切りをつけ、『ロリヰタ。」で再評価した。
多分その辺の普通の読者だ。
当時から文学的だと評価されていたファッションに対する憧憬をなんだかややこしいなと思っていたし、魂の双子という言葉に憧れはあったものの「ありえないだろう」と思っていた。

でも、大人になった今ならなんとなくだがわかるのだ。
文学というものは、結局は高尚なものではないのだ。自意識を書き出したに過ぎないのだ。
野ばら文学には、それが幼い性と被服という形で現れているにすぎない。
一度そう飲み込んでしまえば、この二編の小説はなんと愛しいことか。

代表作である「世界の終わりという名の雑貨店」は、「僕」が「君」という、<魂の双子>ともいうべき存在に語るのがベースとなっている。手紙の返事を滔々と言葉にするその「僕」は、昔は少し幼稚で唐突で好きじゃないな、と思っていた。
もう一本の「ミシン」では、「私」がパンクバンドのボーカルであるミシンにエス(女性同士の同性愛のような、友情以上恋人未満のほのかな関係)の関係を求め、ついにはミシンのそばにたっていられるまで上り詰めるある意味シンデレラストーリーだ。
そのどちらにもあるのが、「肯定してほしい」「受け入れてほしい」という気持ち。
十代の、いや、老年でも心が「乙女」である者たちは、みな自分を武装している。その武装を笑ったり褒めたりするのではなく、自然にしっくりきていると受け入れてくれることが重要だ。
それを野ばら文学はやってのける。
思いの強さを、同じだけの肯定力で受け入れてくれる。

だから私は、これを十代のうちに読めたことは幸せだと思うのだ。
その意味に気付いたのが15年後の今だとしても。




夢見る少女だった時代、「天草四郎」という人物にときめきを覚えなかった人間は少ないのではないだろうか。
妖術を操る美少年、と伝え聞く。そして非業の最後を遂げる。
日本史で出てくる人物の中で圧倒的に謎に包まれていて圧倒的に厨二病心をくすぐられる。

そんな四郎の人生を野ばらなりに解釈して書いた本である。
教科書ではせいぜい2行程度で描かれる「島原の乱」に至るまでの四郎への迫害、妖術を身につけるまでの過程、そして仮の親にまで捨てられ戦のシンボルに立てられる彼の悲哀。どのシーンも残酷なまでに美しい。

野ばら文学は「ロリヰタ。」でひとつの完成形を見せたと自分は思う。その彼の筆力そのままに、伝奇が書かれるのは非常に魅力的だ。一気に読み耽って溺れたい小説である。




 デビュー作「ミシン」が好きだった人は見ない方が良いーー。ずっとその言葉が残っていて読むに読めなかった小説である。
 確かに、読まない方が美しく「ミシン」という物語を完結できたかもしれない。でもこの中でミシンは言うのだ。「生き残っちゃったからには、歌うしかないよね」ーー。そしてその後の、ミシンとカサコによる二人の生活。ライブでの咆哮。全てがこの物語を終演させる為にあって、そしてどこまでも続くような錯覚に陥る。その二人の関係はとても素敵で、それはきっとどんな関係にも負けない絆をもっているのだ。




 漫画雑誌IKKIに連載されていた小説。6つの章からなり、それは全て田仲容子という画家の作品をモチーフにしている。珍しくおしつけがましくない野ばら小説である。
 作中に魂の重さについての記述があるが、これはオカルト的な見地からではなくすでに立証されているといってもいいだろう。人が死ぬとその分軽くなる。魂の重さの分だけ。
 そしてこの小説は、魂の重さをわかちあう為の小説だ。それについて私はなにも述べることができないし、感想を言うこともできない。だってそれは根源的なものだから。




 官能小説なのか、純愛小説なのか。帯で「目をそらすな」と書かれているとおり、刮目して読んだ。私の結論は、これは純愛小説であるということだ。ページの半分以上を裂く鮮烈なセックス描写よりも、心の機微を書いた描写の方が印象深かったからだ。主人公はまたしても小説家。もはやここまでくると嶽本野ばらは自らを模倣することでしか男性を描けないのではないのかと穿った見方さえ出来てしまう。それぐらい生臭く、血肉のある小説なのだ。
 永遠に枯れることのない薔薇。なんと悲しい存在だろう。そしてそれは人びとに見られてこそ、背後のストーリーを追わせてくれるのだ。濃密な、棘の多い、なにか引っ掻き傷のようなものを残して。




 これは、買いだ。
 久しぶりに野ばらちゃん作品で唸ってしまった。なぜこの本を今の今まで読みのがしていたのか無念でならない。そのぐらい、面白いのである。
 なぜ私がそう思ったかというと、それはおそらく、昔私が野ばらちゃんファンであり、乙女のカリスマと祭り上げられてしまってから離れた少し特殊な、でもどの作家にも絶対いる、そういう層の人間だからだ。この作品には今までの文学文学した堅苦しさや押し付けがましさもなく、ただ淡々と「作家」と「少女」の淡いやりとりが載っているのみである。タイトルもかなり思い切ったものだ。「ロリヰタ。」ときた。ロリータ・ファッションのカリスマ嶽本野ばらがこんなストレートに勝負をしかけてきたのは、一体何故なのだろうか。

 表題作は、精神科医と作家のやりとりから始まる。この作家がスカートを履いていることから、主人公の作家は嶽本野ばら自身を模したものだということが推測できる。人間の外見や中身に興味を持っても、年齢や出身地に興味をもたない、という一節も明らかに野ばらちゃんが自分自身をモチーフにしているとしか考えられない。主人公の職業も野ばらちゃんと同じくもちろん作家。そして乙女のカリスマである。一人称で進んでいく為作家本人の名前は出ないが、「怒ると関西弁になる」「携帯のアドレスは恋人候補にしか教えない」というのも野ばらちゃん本人の模倣である。ここまで揃って来ると作品の後半には、「これは野ばらちゃんの独白なのではないか?」とまで思える徹底した模倣ぶりなのである。
 そのくせ性的なことを隠さず書く。デリヘルを使用したきっかけ、新人グラドルとの性交、最後にはマスターベーションなんて単語まで出てくる。しかしそのどれもが不思議と人間臭くないのだ。これは一体どうしたことなのか。模倣されて出来上がった人格にはあんなにも人間くささが宿っているのに、性的な場面になるとそれは徹底した「性欲のためのもの」という割り切りによって、生臭く描かれなくなっている。
 この作品だけ読んでしまったら、嶽本野ばらはこういう人間なのだ、と誤解を招く描写がそこかしこに点在しており、それで傷つくことも恐れている様には全く見えない。まるで実際にこの出来事があったかのようなリアルさ。そして何より、文章の書き方がかなり変わっている。初期しかしらない私が言うのもなんだが、嶽本野ばらの作品はまず「登場人物は何を着ているか」から作られるので、服の描写がくどい。くどすぎるぐらい徹底的に書く。それが本作にはない。もちろん服の描写、それにまつわるやりとりはあるのだが、初期の押し付けがましさとくどさがなく、乙女のカリスマ作家とモデルの少女という二人のやりとりには必要不可欠なものとして存在している。それがまた妙にリアルなのである。
 一体彼はどうしたのだ? 携帯メールのやり方をよく知らないというのも実体験だろうし、こうなってくると現実と模倣の境目が曖昧になってくる。だからこそ、この本は読者を選ぶ。そしておそらくメインのターゲット層は私の様な、「一度離れたけれどなんとなく気になって手に取ってしまった」元読者たちなのだ。それを示唆する場面は初めの方から出てくるのに、ラストまで気づかなかったことが悔しい。私たちはこの作品によって、嶽本野ばらという人間をもう一度見つめ直す機会を与えられたのだ。思い込みを排除して、一度まっさらな「一読者」に戻る為に。なんと巧みなテクニックであろうか!

 書き下ろし同時収録の「ハネ」も、あえて淡々と書くスタイルを崩しておらず、こちらは初期の野ばらちゃん作品「世界の終わりという名の百貨店」に近いものを感じる。

 一度彼から離れてしまったみなさん、これは一読するべき価値のある本だ。だって彼は、ここからもう一度小説を書くことを再起したのだから。そしてそれは確実にあなたの心をふるわすはずだ。




 恋愛についてのあれこれを詰め込んだエッセイ集。と同時に、タロットになぞらえたショート・ショート集でもあります。現実世界に戻ってくる為に読んだのだけれど、野ばらちゃん節全開ですね。でも嫌みじゃないところが、文章が上手くなってるんだなーとほのぼのしました。



昔ながらの「カフェー」を題材にしたエッセイ。

お茶する時間が好きな人は、同時に読書する時間も好きな人だと思う。

ゆったりとクラシックをかけながら読みたい作品。
野ばら節は小出しなので読みやすいです。



簡単に魂のかたわれという言葉を使うのはいかがなものかと。
前作を読んでるのならこちらは読まない方がいいと思います。というか、期待して読まない方がいいと思います。
お洋服が呼び合う縁で勝手に魂の双子にされたらかなわないよなあ。そのテンポの良さが野ばらワールドなんだろうけど。

続じゃない方が面白いです。

でも文体はちょっと磨きがかかってきたかな?
好きなモノに対する執着と細かい描写は相変わらずなんだけれど、行間が読める様なテンポの小説になってきました。
でもまだまだ装飾過多。そこが良いのかもしれないけれど。
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