上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。



市郎は友人の夏宿の家をお盆に尋ねる。家の前では夏宿の弟・弥彦が迎え火を焚いていた。夏宿は市郎を歓迎してくれ、皆で川の字になって眠る。夏宿は以前は丈夫で健康的な少年だったが、この夏は日に当たるのも寒いのもいけない少年に変貌していた。市郎はそんな夏宿にまだ慣れていない。
夜半すぎに庭に弥彦が向かうのを追うと、弥彦は理解できない言葉をしゃべる。「兄さんは死んでいる」。夏宿がいない場所では必ず「兄は死んだ」と言うので、市郎は弥彦にどう接していいかわからない。だって、夏宿はここにいるじゃないか。
戸惑いを覚えながらも池のほとりを見ると、そこには肌をより白くした夏宿が立っていた。

和風ファンタジーとでも言えばいいのか、舞台設定は明治頃らしい。執筆のきっかけは長野の祖父の時代を舞台に書いてみたい、という願望から。なので家の敷地は広く、登場人物は和服を来ている。
非常に短い話なのだが、なぜか今回は読むのに時間がかかってしまった。再読なのでうっすらとは覚えているものの、おそらく何月何日という区切りで話が進んで行くのが合わなかったのだと思う。
内容自体はどこまでも幻想的で『夜啼く鳥は夢を見た』よりは話の進行度合いも高く、きちんと市郎が自分の心に向かい合い、弥彦の発言の意図に気づくところもぞくりとしていい。長野ビギナーにオススメの一冊。
スポンサーサイト



夢想にひたされる、物語。
初めて読んだのは高校の時なので感想はおぼろげなのだが、当時は「少年たちの織りなす幻想的な物語」としてしか捉えていなかった気がする。それが、今読むと長野の「徹底した少年の美学」に驚かされる。

紅於と頬白鳥の兄弟は、夏に祖母の家に訪ねてくる。そこには美しい従兄、草一がいる。紅於はこの従兄が気に入らない。頬白鳥は道中にある沼に魅せられる。草一はその沼に近寄りたがらないが、真夜中に紅於は草一が沼のほとりで水笛をふいているのを目撃する。

なんてことない筋の話である。そして、物語であっという場面もなければ大幅に筋が進行するわけでもない。が、十代のサブカル少女たちはこの物語に陶酔したのである。
では、なぜこの物語は愛されたのか? そこが「徹底した少年の美学」が登場するポイントなのだ。
まず、健康的な紅於と病弱な頬白鳥の対象。兄弟愛というファンタジーを内包しつつ、美しい従兄・草一を登場させることで紅於のコンプレックスを刺激させる。頬白鳥に対する二人の対照的とも言える接し方もいい。紅於は優しいのに荒々しく口を尖らせ、草一は本当は嫌なのに曖昧な笑みで肯定する。収束される頬白鳥の反応といえば、とにかく無邪気でてらいがない。
ここに「進行しない物語」と「現実に存在しない少年」、「古い家屋の作り込まれた細部」などが相成って、独特の読み味を完成させている。
ひたひたと迫ってくる沼の気配を察知できそうな夜に読みたい。



長野作品で涙が出そうなほど切なくなる日がくるとは。

加持史生は十七歳上の兄と二人で暮らすことになった。そのため兄が教師をつとめる学校へ、新学期から転入することになる。夏休み明けの中途半端な時期だ。ただでさえ兄と暮らすのには気が進まないのに、学校への道のりは方向音痴の史生にとって難しすぎた。前を歩く「完璧」な少年の後を追って学校へ向かおうとするが、その少年は学校へ向かっているわけではなかった。
初日から散々な目にあうが、「完璧な少年」椋は史生が気に入ったらしく、学校をふけるのに史生を誘う。ふたりが仲良くするのを良と思わない椋の親友、密には目の敵にされる。実はふたりの少年は、史生の兄朋彦を自分たちの兄になってほしいと願う気持ちを抱いていたのだった。
三人の少年が心に秘める複雑な信頼関係と愛情。彼らはまだ十四歳だ。

長野の徹底的に美学に基づいて書かれている少年たちが眩しく、彼らのみずみずしい友情が胸に迫る。家庭環境やバック・グラウンドが複雑な少年ばかりが集まっているのに、その誰もがまっすぐで、ガラス細工のように愛しい。甘やかな言葉はいらない。ただ一緒に過ごすだけで、彼らは人間性を豊かにして行くのだ。



以前書いたメモはこちら http://kagenokemono.blog51.fc2.com/blog-entry-614.html


何度目かの再読。
主人公の月彦は、気がつくと学校内の劇場にいる。隣には黒蜜糖という少年と、銀色という少年がいる。上映される劇の名前は「銀色と黒蜜糖」。少年たちと同じ名前だ。
月彦は自分がなぜここにいるのかが思い出せない。少年たちの顔を見回しても見覚えがない。その場を取り繕うように会話をし、また気がつくと自分の寝台の上にいる。口からは玻璃のような柘榴の実が溢れ続ける。どこかで、カタカタとミシンを鳴らす音がするーー。
どこまでも現実と夢の世界の境界が曖昧で、目を凝らさなければその境目がわからなくなってしまう。何度読んでも極上のフェアリーテイルであるな、と実感する。
もともと長野は絵を描く人間であるので、何よりも情景を色彩で表すのがうまい。それが彼女独特のかな遣いで描かれるのだから、この完璧な世界に足を踏み入れた自分はなんと幸福なのだろうと思う。



長野がまだ「マボちゃん」と呼ばれていた時代。そう、それは幼い頃の話だ。小鳥を飼ったり、絵を描いたり、遠足に行ったり、制服のブラウスに小さな刺繍をしたり……子供なりのこだわりが随所に見られる短編連作。
私が「長野らしいなあ」と思ったのは給食のシーンだ。パンに挟んで嫌いなマーガリンをランドセルに隠したり、なんてのは子供にとってはありがちだが、給食に出てくるいちごジャムとは名ばかりの甘くてベタベタした物体は嫌いだとはっきり言う。ミルクゼリーはみかんが入っていなくてもいいから端っこの気泡の部分がほしいと言う。うーん、昔から「こだわりの人」だったのだなあ。
少女たちの会話で男の子同士が「できてる」と噂するも、長野がこの後少年愛をテーマにした小説を書く人間だとは思えないほどあっさりとしか関与していなくて、それはそれで面白い。なにがどうなってこうなったものやら。



左近桜蔵、16歳。連れ込み宿の息子で、あやかしに好かれる体質。父親の柾などは、「それはお前がどうしようもなく”女”だからだ」という。生物学上も物理学上も男なのに。
そんな青年を主人公に書かれた12編の小説は、まるで歳時記のようにめくるめく美しくあやしい世界だ。

『花も嵐も春のうち』
武蔵野の駅近く、ひっそりとその宿はある。男同士の連れ込み宿「左近」。桜蔵は駅へ客人を迎えに行くが、その客人は「一番風呂はいやだ」と言う。
元は長野のファンクラブ会報に書かれていたという作品。この話だけで完結してもいいようなうっとりとする世界だ。

『天神さまの云うとおり』
早朝ランニングに出た桜蔵は、男を拾う。酔っ払って正体を無くしている間に現金や荷物は盗られてしまったという。男を置いて自宅へ帰ると、遠くの方から煙が上がっているのが見えた。
羽ノ浦との出会いの章だ。弟の千菊も登場。

『六月一日晴』
突然「左近」を訪れた男に、桜蔵は蝶を映されてしまう。そしてその蝶を羽ノ浦に撮影されーー。
艶かしくエロティックな役割に蝶をもってくるとは、わかってる! という感じ。1頭、2頭という数え方もどことなく隠微。

『骨箱』
修学旅行の資金を用立ててもらおうと柾にいうと、「骨箱」と書かれたとっくりを渡される。地図のところに行けばそれを金に変えてくれるという。
桜蔵の肌の引力はよほどのものがあるのだろう。

『瓜喰めば』
柾と千菊の三人でバンガローへ出かけた先、留守番をしていた桜蔵のところへスイカ売りが現れる。
スイカといえば確かに海を連想させる。死人の未練はなかなかに解消されない。

『雲母蟲』
生物準備室の前を通りかかると、「開けてくれ」という声がする。渋々ながら開けてやると、桜蔵は閉じ込められてしまう。そして桜蔵の体はさっきまでいたなにかに乗っ取られてしまいーー。
羽ノ浦の二度目の豹変が見れる。どんな写真を撮られたのかと想像するだけでエロティックだ。

『秋草の譜』
修学旅行先で民泊することになった桜蔵は、その主人は寝込んでいて息子と名乗る男に仕事を手伝わされる。
そういえば昔の高級な半紙は押し花みたいになっていたよなあ、などと回想した。

『空舟』
突然訪ねてきた客だと名乗る男は、桜蔵が昔祖母の通夜の時にみた”鵺”だった。
完全にあやかしものの一編となっており、これだけで話が膨らませられそうである。

『一夜半』
「左近」の常連、浜尾に連れられてとある場所へきた桜蔵は、浜尾に「未亡人の息子になりすまして印鑑を手に入れてきてほしい」と頼まれる。未亡人は息子が20年前に亡くなっていることをすっかり忘れているのだという。
最後の最後まで展開がどう転ぶかわからないところが面白い。

『件の男』
柾の診療所の玄関口に立っている男を介抱しようとしたら、その男は手帖を残して消えてしまった。その手帖には未来の事柄まで書いてあった。
今度は桜蔵が意識だけあり体が変容する話。ココアがとても美味しそうだ。

『うかれ猫』
柾の正妻に連れられてでかけた先で、自転車で転んだので修理できるところまで乗せて行ってほしい、と行きずりの男に頼まれる。夫人は「おいしいりんごを食べさせてあげる」と同乗を許した。
確かに最中は猫に見えるかもなあ、などと卑猥な妄想をしてしまった。

『海市』
柾と出かけた先で、列車が止まってしまう。ぶらりと下車した先の旧家で柾はお産を手伝ってくるという。後からきた桜蔵がその家へあがると、弥という名の男性が案内してくれた。
ハマグリは蜃気楼を吐く、という故事に基づいた一編なのだが、めくるめく幻想の世界だ。



長野が石好きなのは知っていたが、ここまで「美味しそう」な石を集めているとは知らなかった。
いつものかな遣いと美しい写真、英訳のおかげで世界が幾重にも重なって見える。

『ゾロ博士の鉱物図鑑』
この本唯一の小説、と言えばいいだろうか。短編という長さにふさわしく、わくわくしながら最後まで読める。檸檬石<シトロン・ロック>なんて名前も美しければ、形状もすぐに想像がついて楽しいではないか。
少年のいたずら心が一杯食わされるところが”らしい”。

『石から生まれた18の物語』
タイトル、その英訳。鉱石の名前、その英訳。ページをめくると、2Pに渡って書かれた短い詩のような散文のような短編が載っている。さらにページをめくると、登場した架空の鉱石の”実物の”写真と、説明文。もう一回ページをめくって、ようやく元ネタの鉱石がなんだったかがわかる。
「寝台特急」というタイトルの英訳が「BANANA MOON FISH」。その下の鉱石の名前が「月露」で「MOON DROP」。なんとも美しい。写真を見るとまるで薄荷糖のように白く透き通り、解説にはリラックス効果があり乗り物酔いにも効く、と書いてある。元ネタは月長石(ムーンストーン)。
このような言葉と写真の遊びがなんと18も収まっているのだからお得な気分だ。

『砂糖菓子屋とある菓子職人のひとりごと』
一編の詩と、鉱石の写真、短いそれにまつわる”お菓子”の話が載っている。どれも美味しそうで、しかも長野のファンタジー世界らしい登場人物(?)たちだ。
この前の章が「架空の石と実物の写真」という組み合わせなのに対し、この章では「実物の石と実物のお菓子だけれど幻想の世界」という組み合わせで、読んでいて全く飽きない。

『石を売る舗』
まるでおまけのように長野自身の石に対する思い入れを語るページ。どこで鉱石が買えるかなども記してあり、入門編にはぴったりだ。



以前単行本を読んだ時の感想はこちら。http://kagenokemono.blog51.fc2.com/blog-entry-579.html

文庫と単行本で何が違うかと行ったら、受ける印象が全然違う。多くの漢字がひらがなやカタカナに開かれていて、単行本の時は「美しい日本語」というイメージの小説だったのが、文庫では「優しい日本語」というイメージを抱く。
長野の作品には珍しく、この連作小説には恋愛の要素が一切ない。あるのは長い時代を経て受け継がれてきた箪笥の持っている雄大さと、それを取り巻く家族の暖かさ、そしてちょっと奇妙な訪問者達のざわめきだけだ。
謎は謎のままに残しているこの書き方はとても私の好みに合っていて、人物が匿名になっているのも想像が膨らんで好ましい。

『箪笥のなか』
小母の家に置いて合った古い箪笥を譲り受けた主人公。弟は「箪笥が重い。中に四、五人は入っている」という。弟は昔からこの界ならざるものを見たり聞いたりする性質であった。
これから始まる箪笥にまつわるエピソードにふさわしく、わくわくする書き出しだ。人物設定もうまく、主人公が見聞きする立場でないことがいい。

『鳩のパン』
弟が見た夢の中に、”鳩のパン”が出てくる。そのパンは幼い頃ふたりで遠出した際に、迷ってしまった先で食べたクリームパンを連想させた。
あたたかい話で、鳩のクリームパンを思わず目の前の空間に連想してしまう。ふかふかで香ばしい匂いが太陽と同じで、冷たい牛乳とよく合うことだろう。

『真珠採り』
弟の誕生石である真珠がこの話のモチーフ。アサリの酒蒸しから突然大粒の真珠が零れ落ちてくる。弟は少年を玄関先で預けられて姉の家に一晩泊めることにした。少年の耳の中に虫がはいったかもしれない、と夜にあった出来事を話すと、届けた交番で少年は耳鼻科に行ったと伝えられる。
耳鳴りって波の音に聞こえることがあるんだよなあ、と自分の体験と重ねながら読んだ。この不思議な感覚は、波に揺られている時に近いのかもしれない。文章の中を揺蕩っているイメージだ。

『岸辺』
海の岸辺には色々なものが流れ着く。それをつりあげて瓶に詰めて、道楽者に売る。そんな商売があった記憶がある。
確かに命の元であり水の流れ着く先の海には色々なものが集まりそうだなあ、と。

『箱屋』
バスの中で聞いたよその人の会話。そこに登場する鳥。そんな鳥を愛して止まず、酒と鳥道楽に人生をほぼ費やしたと言っても良い箪笥職人こと”箱屋”がタイトルになっている。引き出しが完全に閉じなくなって箱屋を尋ねるが、そこには本人の姿はなく、若いお弟子さんがいる。すれ違いの末箱屋には会えるのだが、箱屋は「弟子はいない」と言い張りーー。
ここまでの作品で登場する妖の気配を感じる怪異ではなく、最後にきちんと現実的なオチがあるのが良い。

『蛇の目』
箪笥の前に何かのウロコが落ちているのを発見する主人公は、箪笥が前にあった小母の家に泊まった時のことを思い出す。弟が「中に蛇がいるよ」と言い、そのすぐ後に箪笥の鍵穴に指がはまってしまって抜けなくなってしまった騒動の日の思い出だ。
蛇が好きな義妹というのもすごいが、弟の息子であるハトが、すでにいっぱしの大人と同じ存在感で話に登場しているのが好ましい。

『琥珀』
デパートに出かけた際に、黒いワンピースを着た女の人のネックレスがはじけたところを、幼い頃の姉弟は目撃する。拾い集めたそれを女の人は一粒くれた。「琥珀は魂を呼ぶ」と言って。
箱屋も大家も出演し、箪笥のおかげか妙な人の寄り合い所みたいになっている主人公の家。弟も変なら義妹も変だ。それを受け入れてる主人公が実は一番変なのだが、この姉にはもともとそういうものを受け入れる素地があるのだな、と深く納得。

『雪鳥』
鳥には少し思い入れのある主人公が、繭玉のついた(偽物だが)もち花を購入する。母は弟の持って着たもち花に繭玉がたくさんくっついてるのをみて、「そんなにたくさん神様をつれてきて」と困りながらもお汁粉を作って備える。庭に埋めた鳥たちの魂は、どう天に昇っていったのかを思い出そうとするがうまくいかない。
今時綿を大量に買ってくる人間なんてよっぽどの信心深い人かお年寄りぐらいしかいないだろうけど、長野の書く作品の中ではその行動が尤もらしく見えるから不思議だ。

『くちなし』
イラストの仕事で碁盤を描く必要性に思い当たった主人公は、箱屋の非常にものがいいという碁盤を借りる。そうこうしているうちに、家に女性が訪ねてくる。大家が相手をしてくれるが、どうもその女性は正気ではないようでーー。
伏線がきちんと回収されていく面白さがこの作品にはあり、短いながらもこの連作の中では出来がダントツにいい。残り香が強いということは想いが強いということなのかもしれない。

『貝びな』
昔祖父と一緒に作った貝の雛人形を未だに持っている主人公。弟はハトと訪れた後、ゴミ捨て場で立派な女雛を見つけ、「箪笥の嫁に」と持ち帰る。
話の大筋の内容よりも、途中で出てくるちらし寿司が美味しそうでよだれが…。私も弟と同じく貝には目がない方なので、しじみのしぐれ煮入りの混ぜご飯を食べたくなった。

『花ふる』
両親と弟一家と自分とで花見に行くことになった主人公。ホイッスルを振り回すハトを見ながら、弟が幼かった頃のことを思い出す。その弟は、花見の先で見知らぬ老婆を拾ってしまっていた。
花が待っている様子といえば、遠山の金さん。なんて連想をしてしまうような話の持っていき方なのだが、花びらがガラスに見えるという老婆が痛ましく、その光景が目に浮かんで美しさとないまぜになりため息が漏れる。



『よろづ春夏冬中』という作品の中の『雨師』に登場する人物から膨らませた作品群。
”あめふらし”の橘河と、そこのアルバイト市村、そしてその兄は『よろづ〜』ですでに登場している。新しく登場するのは仲村という美青年だ。

『空蝉』
体から体へ意識を乗り換える”妖怪”の仲村が、新しく乗り換えてしまった(それは不意に起こる)体で今後の宿泊先を探す。それが橘河の下宿だった。「息子になってほしい」と、様々な要求をされることになるが、仲村はそれを嫌だと思わない。
橘河の弱さがこの冒頭の章から見えるので、読者もするっと物語に入って行きやすい。

『蛻のから』
”ウヅマキ商會”という怪しげな橘河の営む何でも屋に、アルバイトできた青年市川岬。初仕事で「蛇を捕まえにいく」と言われ、なぜだか風呂を勧められ……。
市川が真っ当な青年すぎて、自分の巻き込まれた事態になにも気づいていないところにおかしさがある。

『こうもり』
市川は仕事で少年に傘を届けにいく。ウヅマキ商會を出た時は現代だったはずなのに、そこはいつのまにか昭和32年だったーー。
ウヅマキ商會の仕事の一端が見える話。つまり怪異関係の依頼も受ける、ということなのだろう。

『やどかり』
仲村が主役の話。とある奥方から「鍵を池から拾ってほしい」と言われ、その依頼を受けるとその先で過去に出会った女に声をかけられる。その女は昔酒瓶を欲しがっていた。
非常に美しい描写の続く風呂場のシーンにうっとりとしてしまう。

『うろこ』
もらった嫁のさゆりがやたらと弁当にピータンを入れることに最近悩んでいる市川は、とある隠れ宿への運転手の依頼を受ける。その旅に橘河の奥方と息子の鳩彦も同行することになりーー。
女は強い! というのが長野作品には多いけれど、これは見事。橘河夫人の鮮やかさといったら。

『わたつみ』
車椅子の老婆が、夫がほしいと依頼に来る。旦那役に仕立てられたのは社員の仲村だ。ちょうどレポートの代筆を受けていた市川は、その届け先が車椅子の老婆の家だということを知り、そこで雨宿りをしていたら現代に帰れなくなる。
なんでもない思い込みの様に見えるが、次の話を読めばそれが思い込みではなく真実ということに気づく。この構成がうまい。

『かげろう』
市川の兄、峠がウヅマキ商會に訪ねて来る。依頼内容は「蛇を捕まえてほしい」。橘河は奇妙なことに気づく。峠のタマシイのありかが見つからないのだ。果たして彼はなんのためにやってきたのか。
ええ〜そういう展開するの!? となってしまったラストに驚愕。あと一話残ってるのにいいのか? いいんです。

『雨宿』
とある青年が”質屋坂”と呼ばれる坂にあるT家の軒先で雨宿りをする。そこは苦い思い出の場所でーー。
なるほど、こう持ってきたか。最初に書かれている『空蝉』が予期せぬ再会の話だが、こちらもラストにふさわしく同じテーマだ。見事にまとまっていて好感がもてる。



文庫じゃない単行本の時に図書館で借りた作品。その時の記事はこちら
http://kagenokemono.blog51.fc2.com/blog-entry-598.html


で、文庫になったので購入した。単行本の時に付いていた「もうずっと前から義兄のことが好きだったーー。」というセンセーショナルな帯こそなかったが、懐かしい気持ちと再読して新しく気づいた感情の動きなどを記したいと強く思った。
まず、これは「少年愛を描く文学者」である長野まゆみが描く「BL小説」だということだ。少年愛を描いた文学者は代表的な人物をあげると稲垣足穂などがいるが、彼らは古代ギリシャの人々のごとく、愛を捧げるのにふさわしいのは神にも等しい存在の「少年」、というポジションで愛を語った。長野も初期は確実にそういう作家であった。
が、解説を読んでいて全くだと同意してしまったのだ。そうだこれはBLの技法で書かれている!
まず、人物は全てが匿名性を帯び、さらに属性がはっきりとしている。最後まで貫くのが主人公の義兄に対する愛、というのも如何にも一途なワンコ受け系だ。さらに主人公は会社で汚れ役を引き受けそれを享受している、でも社内ではじつはその系統の男には恋心を抱かれている「鈍感系誘い受け」。なんともなんとも……さらにはレイプ未遂や不意打ちキスシーンまである。しかもそれら全てが恋をしている義兄ではなく、別の男。
義兄は義兄で、中盤までその全容が出てこない。完璧超人として描かれ、その癖俗世的な小説を好み、トラブルの背景を推理すると三文芝居のプロットのようになってしまう。姉を愛し、クールだが義弟に優しい。義弟の気持ちに気づいているかは怪しいが、おそらく知っているだろうと主人公も思っている。
2000年代に流行った「攻め」を文章化したような男性なのだ。
これが同人誌やBL作品ならば、ここで「俺もお前の気持ちに気づいてた…」と帯のセリフに返して押し倒すところなのだが、そこがそうはいかないのが長野作品なのである。
思うに、恋愛というものは別れたり死別したりすればそこでぷつりと途切れるものではなく、気持ちのどこかでずっと続いていくものではないだろうか。その部分が長野に結末を書かせない。もう読者の想像に委ねてしまう。が、この連作により一話目の「傘をどうぞ」から最後の「傘どろぼう」までで、義兄と主人公の距離感も理解し、お互いの気持ちも察した読者はもうそれだけで満足できる。あとは脳内で二次創作すればいいだけなのだ。
この作品は長野の初期作品と違い、かな遣いも独特ではなく、とっつきやすいタイトルに文体だ。それをわざわざBLの手法で「自分の文学」を描くところに、作者の気骨が見える。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。