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小川洋子は喪失を描く達人だ。その喪ってしまったものの輪郭を上手に浮かび上がらせ、暖かい光で照らし出し、ぽっかりとした空白を見せてくれる。

主人公の”私”は、犬のべべと共にアーケードの配達人をしている。このアーケードには様々な、見過ごされてしまいそうな店たちがひっそりと佇んでいる。中古のレース屋、勲章屋、ドアノブ屋、義眼屋……。どこも大繁盛とは言えないが、あるべきものがそれを手にするべき人の元に届くまで、辛抱強く待っている。
”私”の父はこのアーケードの大家だったが、火事で亡くなっている。アーケード全体が家族のような暖かさに包まれていながら、”私”はそれにぴったりと寄り添うことはせず、どこか空虚を抱えている。

「遺髪レース」という章があり、内容は「遺髪で編んだレースを網屋さんに受け渡しをする」というものなのだが、そういえば人類は髪というものに異常に思い入れを残す生き物だな、と思い当たった。残念ながら遺髪で編んだレースは発見できなかったが、遺髪を閉じ込めたブローチなどは昔からあったようだし、最近ではUVレジンに閉じ込めるという方法もあるようだ。
主人公は誰かを悼むためではなく、喪失した自分を悼む為にレースを発注する。それはおそらく世界の中でとても正しいことであり、もっとも身近に失くしたものを感じることのできる方法なのだろう。
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奔放なようで実はしっかりと計画的に書かれた文章が好きだ。
小川のこの小説は、まさにそのように書かれている。

小説家の”私”は、取材旅行やいろいろな場所にでかけたことを日記に記している。苔料理専門店でルーペを覗きながら様々な苔を食べ、小学校の運動会にまぎれ込み、健康スパランドで温泉に浸かり、盆栽フェスティバルを観に行き、病院にお見舞いに行き、現代アートのツアーに参加する……。そのどれもがリアリティを持った”異質さ”で、決して”私”と読者が同じ世界に暮らしているということを意識させない。”私”は”私”として、小説の中で生活を続ける。日記の最後には必ず原稿の進捗が書いてあり、そのほとんどが「原稿零枚」とある。

文庫の後ろの解説を全く読まずに手に取ったので、エッセイかな? と思いながらページをめくっていた。すると「苔料理専門店」という謎の記述で「え!?」となり、慌てて後ろの解説文を読んだ。ああ、エッセイや日記に似せた長編小説だったのか。なるほど、と得心して、今度は安心して小川の描く奇妙な日常に心を委ねた。
私も暗誦は得意な子供だったのだが、その能力が活かされたことはほとんど無い。主人公の”私”は、その暗誦が得意なことが「あらすじ係」としての素地になっていたのでは、と推測する。
あらすじ係の仕事は楽しそうだな、と思いながら読んでいると、Z先生という小説の大家にあらすじを依頼されるシーンが登場する。Z先生と”私”の間にある、ゆるやかな、過不足のない、すりきりした軽量匙のような整った空気までもが目の前に出現する。小川の文章の美しさは、沈黙と空気の停滞にある。空気は流れるものであるが、小川はそれを意図的に停滞させることがうまい。そうすることで、読み手の脳に空間を作り出し、その空間で映像が浮かぶ仕掛けになっている。
その仕掛けは運動会で、病院の新生児室の前で、パーティ会場で、様々な場所で空間を作り出す。最後のページをめくっても、”私”の日常がまだ続いていることを意識するのはこの手法のせいに他ならない。停滞によって流れを作るとは、高度なテクニックである。
ラストには小川自身の日記も載っており、”私”と小川の違いがはっきりと認識できる。



チェスのグランドマスターに、アレクサンドル・アリョーヒンという男性がいる。白と黒の斑模様の猫を抱いて、「盤上の詩人」と呼ばれたチェス指し。この作品は、<リトル・アリョーヒン>と呼ばれたからくり人形を操ったチェス指しの一生を書いたものである。
リトル・アリョーヒンは、生まれた時に唇が癒着していた。一筋メスをいれられ、唇には脛の皮膚が移植された。それでようやくおずおずと泣き声をあげた。
リトル・アリョーヒンの<チェスの宇宙>に欠かせない存在に、象のインディラ、ミイラと呼ばれる少女、マスターと呼んでいた彼にチェスを押してくれた人、小学校のプールで死んでいたバス運転手、猫のポーンなどがいる。その宇宙に内在する人物は徐々に増え、リトル・アリョーヒンのチェス指しとしての人生を豊かにしていく。
初めは無口で空想癖のあるだけだった少年が、マスターとの出会いでチェスの広大な宇宙に飛び出し、パシフィック・海底チェス倶楽部でリトル・アリョーヒンとなり、その後自分の新天地で幸せなチェスを指す、というこの一人の人物の一生に、チェスというものをよく知らない私でものめり込み、文字をひたすら目で追った。素晴らしい小説だった、そう、リトル・アリョーヒンの残した棋譜の様に奇跡的な。




小川の書く日本語には、嫌味がなく整っている。そしてどこか隠微だ。
この短編集は、一編一編に動物のモチーフが出てくる。が、小川が書きたかったのはそこではないのではないか、と思う。小川がやりたかったのは、「どこかが欠けている人」と「何かを亡くした人」の心の交流なのではないか。
一編目の「帯同馬」では、スーパーのデモンストレーションガールをしている主人公と、朱色のビーズでできたハンドバッグを持った風変わりなおばさんとの交流が描かれる。おばさんは過去大会社の社長の愛人をしており、海外を飛び回っていたという経歴がある。おばさんの家にはそのお土産だという雑貨がたくさん棚にならんでいる。主人公は乗り物恐怖症で、決まった場所を行き来するモノレールにしか乗れない。飛行機に乗ってどこにでも行っていたというおばさんに、主人公は魅力を感じる。例えそれが嘘の経歴で、土産物がスーパーの隣の雑貨屋で買ったことを示す値札がついていても、それを否定しない。
ここで明らかにおかしい人物として書かれているのはおばさんなのに、何かを亡くしたとして書かれているのは主人公である。どこにでもいく権利を亡くした女。おばさんは想像の中でどこにでだって行けるのに、彼女は規則的なモノレールにしか乗れない。
そのやりとりがどこかインモラルな(もちろんそういった描写は一切ない)香りを漂わせて、一文字ひともじぴっしりと収まっている。
全八編。登場人物はみな、どこかが寂しげで、深い愛情を持っている人物ばかりだ。




面白かった。とにかく面白かったのだ。
佐野元春の音楽は今まできちんと聞いた事がなかったのだが、読み終った今では非常に興味をそそられる。

この短編集は、佐野元春の小曲10曲に合わせて、そこからイメージしたものを小川が10の短編にしたものだ。
これがとにかく、斬新な発想ばかりなのだ。
いや、言葉が違うかもしれない。なぜならば小川が書いているのは全て日常の話。「日常」に「斬新」は合わない。だが、そこに一抹の「奇妙さ」が加わる事で、新たな視点を生み出しているのだ。
「バルセロナの夜」で描かれる、図書館司書と青年の恋物語。しかしそれは物語の中心ではなく、あくまで主人公はその恋物語を客観視している別人物。「彼女はデリケート」では、レンタルファミリーという特別な仕事を口紅という素材を使って書いているが、その話の主人公もまた、仕事をしている本人ではなく、その恋人だ。
とかく小川の作品には変わった職業や語り部が登場するが、主人公はみな平凡で客観視をきちんとできる別の人物なのだ。
それが物語を「奇妙な」切り口で見せる、という事に貢献している。
これこそが「語られるべくして語られた」物語、というような気がしてくるのだ。




小川のエッセイ集。数学の美しさに感服し数学者に思いを馳せ、アンネ・フランクにまつわる全てのものを愛しく思い、犬と野球その他色んなものに振り回されながら、しっかりと自分の生活をしていく。
特にワープロに対する思いを書いたものが良かった。
個人的な話で恐縮だが、私の子供の頃の憧れはワープロだった。まだ家庭用コンピュータなど普及しておらず、文章を知的に打ち出すタイプライターは消え、勢力はワープロ一辺倒。中学に入って「小説を書く為に」と友人が親から購入してもらったと聞いた時にはそれはもううらやましくてうらやましくて。もちろんその後私はこうして文章を書く最愛のMacちゃんを購入するのだが、(その前に家族兼用のWindowsXPも購入されてはいた)ワープロ持ちの友人はずっとワープロで小説を書いていた。それがなんだか思い出されてしまったのだ。
文章と簡単なデザインしかできない機械。それが一種の静謐さをもってそこに横たわっている。




小川初期のエッセイ。
色々とまとめてはあるが、個人的には第四章の、宗教に対する小川の姿勢が面白かった。
私も小川のように祖母の代から入っている宗教があるので、他の三世という人の考え方が「なるほど!」といった感じ。特に彼女の場合、否定しようと思った訳でなく分析を始めた時期があり、結果「別に入っていても問題は無い」という結論に達したところが私とそっくりだ。
宗派は違えど、生き残っていくものにはそれなりの理由があるのだな、と思った。
2014.08.29 海:小川洋子




小川の本来の魅力が溢れる、短編集である。
収録されている作品はどれも素敵なのだが、個人的に一番「これは!」と思ったものは、三つ目の「バタフライ和文タイプ事務所」である。
医学生の論文などをタイプする事務所が舞台で、主人公はそこに新しく入った女性。難しい漢字を黙々と紙に打ち付けていると、ある日「糜爛」の「糜」の字が欠けてしまう。そこで所長にどうしたらいいかを訪ねると、「三階にいる”活字管理人”に新しいものを出してもらいなさい」と言われ、倉庫へと向かう。そこで彼女は、活字管理人とめくるめく官能の世界へと入り込んでいく。
官能の世界と言っても、昼ドラにありがちな展開や、触れ合いなどは一切無い。交わされるのは活字に関する言葉だけで、彼女は活字管理人の姿さえもはっきりとは見ていない。しかし、そこに流れているのは間違いなく官能的な世界なのだ。




小川の書いたエッセイや書評を集めたもの。
彼女のエッセイは一冊しか読んだ事が無かったが、なかなか短いエッセイも面白い。なによりもぐっと心をつかまれたのは、一番最初に収録されている図書室とコッペパンの記憶だ。
冬の図書室、ストーブであぶられる給食の残りのコッペパン、ほんのり柔らかいマーガリン。言葉少なに司書の先生と咀嚼し続ける。そこには気恥ずかしさと特別扱いの嬉しさが内混ぜになった感情が転がっている。
これを最初に持って来た編集者の敏腕さに感嘆する。こんなノスタルジックで温かい、子供時代を懐かしませるものを読んだら、ページを捲る手が休まる暇がないじゃないか。
小川の文章が淡々としているのもまた良い。書評などは書き手のテンションが高いと案外疲れてしまうものだ。それを低めの温度で語る事に拠って、実際の作品の熱を感じさせるものとなっている。




 淡々と描かれる、青年と森で拾われたブラフマンとの一夏の生活を描いた作品。なによりもどこか客観的に話が進んでいくのが特徴。とてつもない感情の爆発もなければ、大きな事件も起きない。だがそれが心地よく、どこまでもこの生活が続くのだと錯覚させられる。
 スズカケの森を走るブラフマン、泉で泳ぐブラフマン、落ちていた鍋にびっくりするブラフマン。そして青年の手記で書かれるブラフマンの生態。どれもがいとおしく、ぎゅっと抱きしめたくなる繊細さに満ちあふれている。
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