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「白いメリーさん」の噂は私が幼い頃に流行った。なんでも横浜あたりのデパートなどに出没する、全身白づくめで顔を真っ白にしたおばあさんがいる、とのことだ。どの局かは記憶にないのだが、ワイドショーかそれとも特番かで「白いメリーさん」を追ったドキュメントチックな番組もやっていた。もちろん実在した。
そんな懐かしさからこの本を手に取ったが、大正解。短編集だがどれもらもさんらしい心憎い「粋」な気遣いが見れる。

『日の出通り商店街 いきいきデー』
年に一度行われる日の出通り商店街の一大イベント、「いきいきデー」。この日に行われるのは血を血で洗う殺し合いだ。バトル・ロイヤルだ。主人公は右手に中華包丁、左手に中華鍋を掲げて商店街のメンバーを殺しにアーケードを駆け抜ける。

なんの説明もなくこんなものが初っぱなからぶっこまれるのである。さすがらもさん。世界観が掴めないぞ〜、なんてのんびりしていると読み終わってしまうから注意だ。流れに身を任せろ!!

『クロウリング・キング・スネイク』
父と姉と主人公は仲良く暮らしているが、ある日あねじゃが突然「蛇女」になってしまう。そんなどう考えても不幸な出来事が起きたのに、漢文教師の父親は「先祖代々の祟りだ」と主人公にも覚悟するように言い、あねじゃは前向きに生きるなどと言ってエレキ・ギターの練習を始める。いったいこの先どうなるの?

「あねじゃ」って呼び名がもう「姉者=姉蛇」のダブル・ミーニングなんだろうな。それにしても誰一人憂鬱になってないところが面白い。天地がひっくり返るぐらいの衝撃だと言うのになんと明るいのか。

『白髪急行』
海外を放浪していつかものを書く人間になろうと決意していた主人公は、帰国しても細々と翻訳の仕事をするだけで日常を過ごす。結婚もせず、老いた母を見送り、毎日終電で帰って高架の上を走る回送電車を見つめる。だがその日は回送電車に子供が乗っているのに気づく。

硬質に書かれた文体が余計に気味悪さを増長させる。それだけならばいいのだが、どこか救いを感じてしまうのが恐ろしい。

『夜走る人』
夜は走る時間、と決めている主人公。コンビニの前を通り過ぎ、大工洋品店の前を通り過ぎ、公園の緑の中を一周して帰る。そんな毎日の時間に変化が訪れた。公園脇の「車さん」と呼んでいるホームレスが、少年たちに暴行されていたのだ。主人公は力を解放して車さんを助ける。

世の中に救いというものはなくて、弱者は強者に搾取されるだけで、それはとてもつらいことだけれど自然の理なのかもしれない。車さんはきっとそんな生物のあり方がいやだから今住んでるところが「スポンジ地球」だというのだろうなあ。

『脳の王国』
加持真平。見た目は50代。乾物屋の亭主。愛想が良く選別眼も確か。そんな彼には、隔世遺伝した特技ーーというと語弊があるかもしれないがーーがある。それは「人の心が読める」こと。普段は心に閂をかけて勝手に読んだりしないようにしているが、その日は違った。「心を読んでほしい」という依頼人が来たのだった。その読んでほしい相手、というのは依頼人夫妻の息子だった。

五感を失った人間より、元から五感がない人間の方が幸せなのかもしれない。となると、障害者と呼ばれる人間ももしかしたら健常者よりも幸せなのかもしれず、強いと思ってる人間より弱い人間の方が幸せなのかもしれず、世の中とは複雑にできている。

『掌』
コンパニオンをしている杉ちゃんの家に転がり込んでいる主人公。杉ちゃんはいつもはニコニコとした菩薩のようないい女だが、月に一度ほど嵐のように暴れる日がある。そんな日常をすごしていて、ある日新築の家の襖に手形がついていることに気づく。襖を取り替えても、浮き上がってくる。そしてその手形は杉ちゃんが暴れる日の前兆として浮かび上がるのだった。

ホラー調の話はらもさんはうまいが、これも落語のように綺麗に終わっている。過不足なし、という感じ。ホラーならば同じくらもさんの書いた『人体模型の夜』が最高だったが、その原型が見える作品。

『微笑と唇のように結ばれて』
画廊を経営している主人公はもう五十代だ。ある日、天使のようにどの絵画より美しい女、マリカがやってくる。惚れ込んでしまった主人公はマリカを食事に誘うが、マリカはワインは飲むものの食事は摂らない。その理由は、マリカは嗜血症を患っている現代の吸血鬼だったからだ。

血を失う時の恍惚感というのはすさまじく、それが誰かを生かす糧になるのならば私も喜んで差し出すかもしれない。愛する人だとしたら、特に。

『白いメリーさん』
噂を追いかけて記事を書いている主人公。娘から「白いメリーさん」の噂を聞き、興味が出て娘の友人に取材をする。が、それは娘の友人に「嘘つき」の烙印を押すことに他ならず……。

表題作なだけあって、完成度がずば抜けて高い。実際に存在していた「白いメリーさん」を話の中心に持ってくるところもうまい。

『ラブ・イン・エレベーター』
どんな理由か当事者もわからないが、上昇し続けるエレベーターに閉じ込められてしまった男女。やがて二人は愛し合うようになり、アラビアン・ナイトの千夜一夜物語のごとくお互いの過去や考え方について語り合う。愛を深めるのもつかの間、やがて二人はお互いに飽きはじめ……。

いやー、拍手。これで終わるのがまたうまい。らもさんの話は毎度落語のごとく綺麗にオチが決まり、それが快感になる。
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これは「二人称小説」なのではないかーー?
最後のページまで読んだときに浮かんだ疑念は、まずこれであった。
あまりに有名すぎて、大方のあらすじを私たちが知っているからかもしれない。が、後半の「先生と遺書」については主人公の”私”へ先生が語りかけるという形式をとりながらも、その内容が先生の過去(しかも誰にもつまびらかにされていない)という点から、私たちに語りかけているような気分になってくる。そうして”私”が私たちに、”先生”が漱石に感じられてくるのである。
解説にもある通り、おそらく漱石の思惑通りに筆が進んだのは、”私”が郷里から東京へ電車に飛び乗るシーンまでだろう。ここまでは漱石の策略が感じられる。レールの上に乗せて「読ませて」やろう、という筆致が感じられる。
が、後半の「先生と遺書」の段になると、話は違ってくる。あまりに長いこの遺書は、レールの上を走っていた私たちを思考の海へ放り投げる。有名な「精神的に向上心のない奴は馬鹿だ」のセリフは、じわじわとみぞおちに食い込んでくる。これはKが先生へ投げ、それを先生がKへ投げ返し突き刺した言葉であるが、私たちの腹にも突き刺さる。
つまり、先生は”私”に、この過去のやりとりを話すことにより、”私”に先生より高みに立ってほしい、と願っており、それは妻へ打ち明けないでほしいということであり、そう飲み込んだ上で「生きて行く」という選択をしてほしい、という願望である。
それを、二つの段を追って”私”と同一化した私たちに、抉るように突き刺してくる。
「先生と遺書」の段があまりに有名で語られているのに対し、前ふたつの段は軽んじられているような気がする。私は、この前ふたつの段の方がよほど「文学として」「正しい」と言いたい。このふたつの”私”が語る先生という人間、またはそのイメージというものがなければ、最後の「先生と遺書」の段にスムーズに没入していけないからである。その点において漱石はうまかった。見事に”先生”とは何者なのか、という興味を抱かせ、”私”を私たちであるよう錯覚させ、最後の段において疑問や後悔を”私”ではなく”私たち”に投げかける。この手腕は見事としか言いようがない。
私はこの点において、この小説を「二人称小説」だというのである。一人称で始まる小説が二人称になる時、人は相手から何かしらのエネルギーを受け取る。それは憎しみであったり愛情であったりと様々だ。そして『こころ』においては、「精神の殉死」という尊ぶべき純粋さを受け取るのである。



さくさく読める内容なのに諸事情で半年以上かかって読むことになってしまった。
法月のデビュー作である。
この作品にはこれ以降に登場する「名探偵:法月綸太郎」は登場せず、高校を舞台に生徒の一人が探偵役を買って出る密室ミステリものとなっている。
登場人物がどれも魅力的に描かれており、改稿を重ねた結果なのか青春群像劇としても読むことができる。それほどまで人間関係が複雑なのに、途切れ途切れで読んでも「ああ、このセクションの前はこういう流れだったな」と簡単に流れを思い出せるのがすごい。

梶川笙子が朝登校すると、教室のドアが開かなかった。
担任の大神(ネロと呼ばれている)がドアをこじあけ、そこに一人の男子生徒の遺体を発見する。
彼の名前は中町といい、なんと中町は”イスも机も何もない教室の真ん中”で、喉を裂かれて絶命していた。
教室の出入り口はガムテープで目張りをしてあり、窓のクレセント錠もかかっている。
完全な”なにもない”密室に、血まみれの遺体。
ミステリ小説好きの工藤はこの事件の探偵役を名乗り上げ、刑事の森、担任の大神、そして親友やちょっと好意を寄せている女生徒などとともに事件の推理を始める。
そしてこの事件には「自殺か他殺か」などという問題だけではなく、もっと別の闇が存在することに気づくのだった。

キャラ設定の妙か、工藤が嫌味なくストーリーを進めていくのに、最後まで「完璧超人」として書かないところが素晴らしい。人間誰しも心に抑えきれない衝動と暗がりを持っており、それはどのような形で発露するかわからない。
そこを書き切るのが筆力の見せ所である。
法月作品に珍しくこの作品は単体で完成しており、それが逆に読むものにとって印象を変える不思議な読後感を与える。



この本を初めて読んだのは高校のときだった。
当時友人が図書館に希望を出していれてもらった本で、司書の先生が「有害図書」と判断して表には出なかった。そりゃそうだ。ドラッグの話である。
私は司書の先生と仲が良かったのでこっそり貸してもらった。当時ドラッグ関係に非常に興味があったのだ。それは別に「やってみたい」という実質的な興味ではなく、体験談や症状を詳しく知りたいという学術的な興味だった。
私が不思議だったのは、本書の中身についてではなかった。
友人のなかでもひときわおとなしく、いつもニコニコと人の話を聞いているタイプの彼女がこの本を読みたがったというのが不思議だったのだ。

この本ではガマの油からハシュシュ、咳止めシロップ、サボテン、手に入りそうなものはなんでも書かれている。らもさんはガマを舐めようと思った時に「これで死んだらまだ見ぬ孫が悲しむな」と思ってやめたそうだ。賢明だ。(ガマには毒がある)非合法なものはあまり好まない。ドラッグには貴賎があるというのがポリシー。薬物の「風情」を好む。そんならもさんの実体験をもとに色んな文献から体験記を引っ張り出してまとめている。表紙の可愛らしい小人とベニテングタケなんて中身を読んでしまうとなにかの暗示のようで恐ろしくなってくる。
かく言う私もドラッグは経験したことがある。そして何より今は抗鬱剤と抗不安剤、睡眠薬を常用しているわけだ。
他にどんなドラッグを体験したかはここに記さないが、あれははまってしまう人の気持ちがとても良くわかる。なんともいえない世界にトリップするのだ。ちょっと前に脱法ハーブが流行ったのもうなずける。
私にはそれらの体験をらもさんのように軽く楽しく書くことは多分できない。やっぱりこの人は、ただのアル中のラリ中の人ではないのだ。




 ぺらぺらとめくりながら妄想するのに丁度いい本。謎を解き明かそうとするのではなく、謎を妄想するための本となっている。それこそ日本的でよい。




 安楽椅子探偵ものである。しかも設定が非常に奇妙で独特だ。思わずうーんと考え込んでしまった。

 タックこと匠千暁たちが迷い込んだのは、家具も内装もない無人の別荘。中にあったものは子供用のシーツがかけられているシングルベッド一台に、ウォークインクローゼットの中に隠された冷蔵庫。その冷蔵庫には大量のビール、ビール、ビール。誰が一体何の目的で、こんなことをしたのか? タックと仲間たちはビールを飲みながら、推理や仮説を重ねていく。

 設定の奇妙さにとらわれていては前に進まないというか、登場人物の会話のテンポの良さでようやく自分も推理をすることができるというか。とにかく面白くて二時間半ほどで読み終わってしまった。「ミステリはちょっと・・・」と及び腰になっている方にもおすすめ。



過去を思い出させる文章というものがある。
読んでいるうちに、「あー、私はこうだったなー」と思い返す文章である。本書にはその、過去を思い出させる文章がたくさん、こまごまと読みやすく載っている。
らもさんの文章が好きだ。飾りっ気のないところが最大の魅力なのだと思う。なのでこのエッセイは読んでからしばらく、「ああ、買ってよかったなあ」という気分にさせられた。なんてったって沢山のエッセイが載っているのである。そういう敬虔な気持ちにもなろう。
「大陸的お尻」というエッセイが特に好きだ。オムツトレーニングという言葉をよく聞くが、大陸ではその必要がないのである。うーん、日本に取り入れられることはまずないと思うが、簡潔でよい。
こざっぱりした文章が読めるというのは非常に良いことだと思う。私もこういう文章が書ける様になりたいものだ。



アル中男性の、アルコール依存から抜け出すまでの様子を描いた小説。
なんとも哀しげで、そしていささか可笑しい。
登場人物も個性的で、目をきょろきょろしながら台詞を追っていった。
再三申し上げている様に、私はらもさんの簡潔な文体がとても好きである。余計なことはかかずに、想像させてくれるからだ。自分の脳が活発に動くのが解るのだ。
小説自体の面白さもさることながら、この本はタイトルセンスが抜群である。
だって読んだら、したくなっちゃうんだもの。
主人公は最後にアル中を抜け出す訳だが、それには悲しみが付随してくる。
酒飲みは悲しいことがあると、乾杯をしたくなる。例えばここにいないもう一人の分のジョッキを頼んだり、乾杯で気分を無理矢理あげたり。
その両方の気持ちが上手い具合に混ざり合った結果が最後の行動なのだと思うと、私もバーに行って乾杯をしたくなる。それも誰か親しいひととともに。



表紙のセクシーな姉ちゃんに惹かれた。
SFハードボイルド小説だった。
カタカナがちょっと癖のある感じで使われているけれど、読みやすくて面白かった。



らもさんが好きだ。
人柄とかではなくて(だってあったことがないもの)、描く文章が好きだ。
あのだらだらと薬の話を並べ立てているだけの小説は頂けないのだけれど、これは全く違う。
どうかんがえてもこれはガンジャ決めて書いたとしか思えない。だって、あきらかに「文学」それも「ミステリ」で「SF」で「ルポルタージュ」なんだから。
こんなに面白いものを、分厚いからという理由で避けていた高校生の自分をぶん殴りたい。

でも、バキリの本当の力は何だったのか、清川の本当の力は何だったのか。そこはやはりSFであり、オカルトである。

アフリカ中毒者が多い理由が良く解った。
これは、ドラッグだ。
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