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谷崎四十歳の時の作品。
これを書いた当時は谷崎が関西に移住してまだそんなに経たない時で、大阪弁の魅力というものを感じ始めた時分でもあった。

「先生」と呼んでいる人の元へ、一人の未亡人が訪ねてくる。
女の名前は柿内園子。とある事件の当事者として、その名が知られるものだ。
その事件とは、女学校へ通っていた際に知り合った美しい女、徳光光子との出会いがきっかけとなって起こったものであった。
光子の「顔が好きだ」と感じた園子は、日本画のデッサンの授業で、観音様を描いている最中にその絵の顔を光子に似せて描いてしまう。それがきっかけで同性愛の噂が立ち、その後本当に「光っちゃん」「姉ちゃん」と呼び合う仲に発展する。
しかし蜜月もつかの間、光子には綿貫という恋人がいることが発覚する。
果たして自分は光子に欺されているのか、綿貫に欺されているのか。
揺れ動く心を抑えながらも、光子により一層惹かれていく自分を抑えられない。
そんな折、自殺未遂をした園子と光子だが、園子の夫と光子が……。

谷崎らしい変態性というか、繊細さで書かれた作品であった。
MからみたSというものをかなりしっかりと描いている。
崇拝されなければ生きていけない光子と、それに傅く園子。
男女の関係ならば「愛情」だけではなく「性欲」が関係してくるのでむしろ話がわかりやすくなるのだが、ここで取り上げられている題材は同性愛。「愛情」にも種類がある、ということを余すことなく書いている。
また、園子がずっと下に見ていた夫に出し抜かれ、夫が光子と性的な関係におちいる際の描写は、見ていて胸が張り裂けそうなほど実感があった。
かと思うと、二人が園子を置いて死んでしまう場面などはあっさりと書かれていて、「情死」がテーマの作品ではないとはっきり分かる。
一貫して大阪の話し言葉で書かれている作品だが、その言葉遣いがちょっとも嫌味でない。これが標準語だったら話し方に若干の嫌味さがでてしまうだろう。成熟した話し言葉ではないものの、違和感を感じることなく読めた。
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2016.06.08 斜陽:太宰治




傑作、と呼ばれているこの本を読んでみた。
なるほど、これは確かに傑作である。

この物語にはメインの登場人物が4人出てくるが、その中でもひときわ存在感があるのが「かず子」だ。物語はほとんどが彼女の視点で語られ、別の視点は手紙や会話という形式でしか登場しない。

なのになぜ「メインが4人」となるのか。

それはその残り三者がかず子の人生に深く関わり、そして今後も暗い影を落としていくであろうからだ。

まず、かず子の母。貴族の最後の生き残りではないかというほど美しく少女のように可憐で、スウプをヒラリ、と小鳥のように飲む、読んでいてとても抱きしめたくなる衝動にかられる人物だ。
かず子は母の愛情を頼りに生きてきたし、これからもそれはかず子の人生の基盤となっていく。
弟の直治。文学や薬や酒に溺れ、姉のかず子に迷惑をかける存在。母は直治のことが大切で、かず子はそこに嫉妬心を燃やし、勝てないことを知りつつぎすぎすと生活をする。
そしてこれがもっとも重要人物の、上原。直治の師匠で小説家。別に取り立てていい男というわけでもなく、世間からは見下され、良い妻と子を持っているどこにでもいる文士だ。

物語は伊豆の山荘で、かず子と母が生活しているところから始まる。ヒラリ、とスウプを飲んでいる母が、「あ。」と何かを思い出して食事を一瞬中断する。そして何もなかったかのようにまたスウプを飲む。
もう、この書き出しだけで母に迫る仄暗い何かが見えてきそうな文章だ。
かず子はそれが戦争へ行っている弟の直治を思い出してのことだと思い、母もそれを肯定するが、私にはそんな簡単なことには思えない。
おそらく、母はこの段階で自分の死を予感している。
それはページが進むにつれてはっきりとした予兆に変わり、母は「自分が夏に死ぬだろう」という確信を抱く。
が、南方に行ったっきり連絡の取れなくなっていた直治が帰ってきたことで、母は秋まで生き延び、二人に看取られて逝く。
母が逝去するまでの間に、かず子は上原に3通の手紙を出している。
1通目は狡猾で奸智にたけたもの。「私はこれだけ教養があるのです」という見せびらかしのような手紙だ。
2通目はそれを詫びつつ、「あなたに会いたい」と告げる。
3通目はもう返事のこないことにいてもたってもいられず、「どうにか一目だけでも会えないか、そうしたら私の気持ちがわかるはずだ」とはっきり告げる。
しかし返事はこない。
母が亡くなりもう看護師兼女中の役割を捨てても構わないとなった時に、かず子は上原に会いに上京する。
上原とかず子が会うのは、たったの二度だ。
1度目は薬に溺れた弟の不始末を訪ねに行った頃のことで、徴兵が始まる前。その時にいたずらっぽく軽いキスをされ、そのままかず子の心には燃えるような虹がかかった。
その虹の炎を灯りとして、かず子はつらい世の中を生き抜いた。たった一度会っただけの、なにもわからない男性に生まれて初めての恋をした。まだ、その頃は別の男性と結婚もしていたのに。
その炎を内に秘めたまま、暮らしに耐えられなくなったかず子は「子供が欲しい」と望む。そして、どうせなら好きな人の子供が、と考え、一方的に手紙を書くのだ。
ここにも母の死の予感が見える。かず子はこれから先一人で生きていくことはできないと確信し、母の愛情を「自分が行う」対象を求めた。それには弟のウマの合わない直治ではいけない。
だが、ひとり(正確には子供と)で生きていこうと決意している割には、かず子に直治の死を感ぜられるものがなかったのか。
直治はかず子が上原と結ばれたたった一晩の間に自殺してしまうのだ。
おそらくかず子には、タイトル通りのものが見えていたのだろう。彼女は貴族には珍しく、「ヨイトマケをしてでも生きていく」という強さがあった。世の中のものにたいして愚鈍なのではなく、興味がなかった。自分の周りの世界を大切に慈しみたい性格だった。
そして、それを直治も知っていたからこそ、かず子がいない日を選んで自殺したのだ。

帰ってくる弟のために部屋に入れた荷物の中から、かず子が直治が薬の中毒にかかっている時の手記を読むシーンがある。
かず子はなにも言わない。読み終わった後、霧雨でけぶる窓をあけるだけである。
このシーンは、かず子が心の平穏を取り戻したシーンでもある。
狂人のふりをし、バカの真似をし、それでも誇りを失わない弟。「失えなかった」弟。その弱さが、反面かず子の中では「強さ」として現れていくのである。

四者四葉の生き方を巧みに書いた、と言われているこの作品。
舞台設定もさることながら、緻密に計算された文学の「うまみ」を持って、私たちの胸に降りかかる。




初夏の喘ぐような暑さの中、ついと目を惹かれて購入したのが角川文庫の「人間失格」だった。
私は精神論者でも唯物論者でもない。太宰のことはどちらかといえばいままで避けてきたうちに入るであろう。
高校の時に読んだ「走れメロス」が大嫌いだった私は、立派にひねくれて育ち、そのことは私の自己肯定にもつながっていた。
その私が、太宰を買った。
読んでみると、どうも自分が思っていた内容と構成が違った。初めの一文が「恥の多い生涯を送ってきました」だったと記憶していたが、それは本文中の「第一の手記」の書き出しであり、「人間失格」自体は3部構成となっている。はしがき、手記、あとがきだ。
この構成が実に見事である。
はしがきでは三葉の写真が提示され、それに写る共通の人物がいかに怪しげで胡散臭いかということがわかる。
そして手記はこの写真の人物によって書かれる。
若くして人間に疲れ、人間社会に馴染めず、苦悩しつつも道化を演じる。
その場限りの笑いを食物とし、細々と生きながらえる。
そして恋を知らずして多くの女性に言い寄られ、その中で全く周りから笑われるような女性と心中事件を起こす。
ここまで読んで、「ああ、これは太宰の人生なのだ」と思わない人はないだろう。
葉蔵の妻の姦通事件もまた然り。
そして主人公の葉蔵が脳病院にいれられその人生の消息がふっつり途絶えるところには、太宰の麻薬中毒による入院と重ねてしまう。
そしてあとがきでは、要蔵を養ってくれていたバーのマダムと「読み手」である作者が出会う。マダムは「葉ちゃんは神さまみたいないい子でした」と答えるが、これはきっと太宰の願望である。
彼は「恥の多い生涯」を上っ面だけで送りながらも、誰かに肯定して欲しいという願望を隠さずここに記したのである。

タイトルにまでした「人間失格」であるが、ここにはいくつかの読み解き方が存在する。
葉蔵が人間失格だと冷酷に読むか、それとも葉蔵のような人間をあざ笑う世間の方が人間失格として読み解くのか。
私はどちらでもなかった。
人間は自分で「失格だ」と思っている時こそもっとも人間らしいのではないだろうか。
動物は罪の意識を持たない。
作中で葉蔵が友人と「反語遊び」をする場面があるが、「罪」の反語を見つけられないうちに妻の姦通を見てしまう。
そして「無垢とは罪」と確信するのだが、本当にそうだろうか。
無垢とは、罪の反語なのではないだろうか。

汗ばむ陽気の中、同時収録の「桜桃」を読んだらじわりと脇の下がにじんだ。




 書と禅語の見事な融合。非常に読みやすくわかりやすかった。




 竹本のボーイ・ミーツ・ボーイ的な少年性のある作品は大好きなのだが、本書は子ども向けの「ミステリーランド」に寄稿されたものであり、その少年性がより濃く出ていると言っても良い。
 形式としてはミステリをとっているが、これは明らかに恋愛小説だ。それも学園のアイドルに恋するワトソンくんのーー。
 事件の解決はとりあえずなされているが、その後彼らがどうなったかは誰も知らない。竹本健治自身にも解らないのではないだろうか。なぜならこの世界はここで美しく、残酷に完結してしまっているのだから。

とあるキリスト教系学園で落雷事故が起こり、一人の神父が不幸にも校庭の真ん中で死亡してしまう。そのことをきっかけに学園内に不穏な空気がたまりはじめ、”キョガク”のメンバー4人はそのことに敏感になりつつも、「何かが起こる」ような気がしていた。そしてその”何か”はすぐに起こった。人体自然発火という形でーー。

 メンバーそれぞれの特徴がうまく描けているのも面白く、児童文学としてはややあぶなっかしい面もあるものの合格点と言って良いだろう。これを読んだ男性がボーイ・ミーツ・ボーイものに目覚めなければよいのだが、といったところだ。(いや私としては目覚めてもらって一向に構わないのだけれどね)
 でも学園のアイドル、同性のカリスマ性のある美しさに対する欲求みたいなものは誰でも体験したことがあるのではないだろうか。この作品はそれが少し大げさなだけで、ミステリとしての筋もきちっとしているし、万人には勧められないものの、竹本作品の入りとしては良い作品だと思う。この学園がその後どうなるのかは、まさに神のみぞ知るである。残念。




 非常に楽しく読めました。タイトルどおりの本。このシリーズ集めたいなあ。七福神が載ってないのがちょっと残念でして、インドからやってきた神々ものっけて欲しいなと思っていたら、別の本に載っているらしくて楽しみです。



私はこの短編集が好きだ。
元々人間の記憶など、不確かな事が多いのだから。
それをここまで多才に表現した14掌に、魅力を感じてしまう。
竹本の世界はまさに閉じ箱だ。
内側からカチャカチャと世界が構築されていく。外側からは、内部で何が起こっているのか気づけない。
「恐怖」というロボトミー、人の感情を支配してしまい原点に気づかせる小品と、佐伯千尋シリーズの中でも竹本の趣味が丸わかりの「実験」がお気に入りだ。



きもちわるいいいいぃ

だがそれがいい。

「到着」っていうとても短い短編があるので、それだけで良いから読むと良いです。頭がひっくり返ります。

狂気と天才は紙一重と言いますが、ギャグとホラーも紙一重なんだなあと。



リビドーとは、性欲のことである。
つまり、エロ小説。その辺で暇つぶしに読まれるような消費されるエロを、半ばシニカルにこういったものに昇華するのは大変な才能が必要とされる。
だってSFなんだから。

私はこの作品に収録されている「モダン・シュニッツラー」という作品がとにかく好きで、その為だけにこれを読んだと言っても過言ではない。初めて「モダン~」を読んだのは別の短編集だったのだから。
でも。筒井の書くリビド-が他にもある。

だから手に取った。そして満足した。
聖を突き抜けて残るのは、快楽ではなく満足なのであろう。リビドーは己の乾きであり、それが満たされた時に、人間は想像力をなくす。

やっぱすごいわこの人。



愛情を貫くということは、なんと難儀なことなのか。

とくにタイトルに描かれているほど「遠野物語」が前面に押し出されている訳ではなく、普遍の愛を基軸にした殺人事件とも、素人探偵ものとも読める。
ラストに不満があるのは、きっとまだ私が若いせいだろう。

サムトの婆は空へと消えた。
二人はまた帰ってくるのだろうか。
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